東郷艦隊の砲術訓練について、
外?砲射撃をやったかどうかについて筆者に多少不安があり、海軍砲術の権威である黛まゆずみ
治夫氏に問い合わせてみたところ、 「やらなかったように思う。あるいは数多い日本軍艦の中には、やった艦もあるかも知れない」 ということであった。 外?砲がいとうほう射撃の方法は明治四十年以降か大正のはじめに考案されたもので、その方式はまだ日露戦争当時にはなかったというのである。 しかし、当時軍楽手だった河合太郎氏の三笠における記憶では、 「砲の上にまたがって、薩摩弁でいうペッポウ
(鉄砲) を構え、標的にねらいをつけて射つのです。標的というのはイカダの上にヨコ一間けん
、タテ半間ばかりのものを立て、これを汽艇にひっぱらせてゆきます」 ということになっている。この方法は、のちの外?砲がいとうほう射撃法とおなじ思想だが、方法としても装置としてもきわめて素朴だったから、外?砲がいとうほう射撃とはいわずにこれを用いていたのかも知れない。 むろん、小銃を砲の?とう
内に仕込んで標的をうつ 内?砲ないとうほう
射撃の方法がとられていた。この方法はさきにふれた英国のバーシー・スコット提督が考案したもので、それを東郷艦隊が用いた。 方法は河合氏の記憶にあるように、汽艇がワイヤー・ロープをもってイカダをひっぱってゆく。そのイカダの上に標的が据えられている。標的は鉄板製で、障子一枚ぐらいの大きさのものが立てられてある。そこに◎が描かれているか、敵の艦型が描かれていた。 実弾射撃については、この艦隊は開戦前、日高壮之丞が常備艦隊司令長官だったころに瀬戸内海の島ひとつをこなごなにくだいて消滅させてしまったくらいの訓練経験をもっている。鎮海湾にあってもそのことは行われたはずだが、たれの記憶にもどの記録にも見当たらず、共通して語られているのは、
内?砲ないとうほう 射撃のことばかりである。 叙述がちりぢりになるが、先に述べた一斉打ち方を黄海海戦のときに三笠砲術長だった加藤寛治が創案したということがやや定説であっても、すでにその思想と方法は海軍砲術学校で正木義太大尉
(旅順口閉塞隊に参加) によって研究されていたとも言い、さらに言えば日露戦争が始まってすぐさまこの方法をやってのけたのではなく、戦争直後、小型巡洋艦の砲術長だった永野修身おさみ
大尉がはじめて有効に行ったともいわれている。 さらには日本海軍の独創ではなく、やはり英国海軍のパーシー・スコットの影響を受けたのではないかという説もあり、いずれにせよ、この当時の海軍軍人が個人名をもって功績を主張するという風がまったくなかったため、じつにわかりにくい。 ただ一斉打ち方の方法
(厳密にいえば全砲台の射距離の統一) が、東郷によって採用され、東郷によって最初にそれが実戦の場で用いられたことだけは確かである。 もっとも、一斉打ち方を厳格に実施するには、号令伝達を完全に可能にするための装置をつけねばならず、それがなかったため、実際の日本海海戦ではどの瞬間もそれが理想的な具合には運ばれなかったことだけは確かである。 |