このころの射撃訓練に、 「内?砲
射撃」 という方法があった。 小銃を大砲の中に装置しておく。それでもって砲員は大砲を操縦して目標を狙い、その小銃弾を目標へ発射するのである。 もっとも場合によっては大砲の上に練習用の小さな砲を背負わせて射つ方法もあったが、この鎮海湾にあっては主として内?砲ないとうほう
射撃がおこなわれた。 この内?砲ないとうほう
弾薬というのは、軍艦においては一年分の消費量はほぼ決まっていて、たとえば三笠の場合は約二万八、九千発であった。この二万八、九千発を平時ならば一年間で使うのだが、それでも使いきれず、三、四割はどうしても残ってしまう。 「ところがそれが、鎮海湾では十日ぐらいでなくなってしまった」 と、当時三笠の砲術長だった安保清種あぼきよかず
少佐 (のち大将) が、語っている。 このため、すぐ本国から弾薬を取り寄せて補充するというぐあいで、毎日夜明けから日没までこの演習が続き、加コ水道を移動して行く艦も島蔭に碇泊している艦も、この一帯の歡という艦が銃声を間断なく吐き出し、全艦隊が偏執狂になったようで、げんに最初の十日間ぐらいはこの銃声と反響とのさわがしさの中でみな気が変になりそうな思いをしたが、東郷は不動の意思をもってつづけさせた。 「五月まで三ヶ月あまりも練習しておりますとじつに百発百中というまでの技倆に達しました。日本海海戦が大勝におわった原因の一つは、この命中率の高さによるものではないでしょうか」 と、河合太郎氏は語っており、安保清種も、 「五月まで練りに練ったのですから、射手の腕前というのは相当の域に達し、おかげで私は砲術長として十分な自信を持つことが出来ました」 と、語っている。
ところが、目標の識別も訓練しておかねばならない。 いざ実戦の場合、射手が攻撃目標を誤ってはなにもならない。たとえば砲術長が号令を下して、一番右の艦とか、最先端の艦といったぐあいに命じても、沖合いを進んで行く敵の艦隊が、二列三列に重なってくることもあり、ときには混乱してどれが号令の艦であるかわからなくなる。 このため、目標をその敵艦の位置・・
で指定せず、敵艦の固有名詞そのもので命じることにした。そのために敵の艦型と艦名を教えておかねばならなかった。 ところが、ロシア名称というのは水兵たちに覚えにくいため、暗記用あんきよう
の日本語をつくった。 たとえば、 「アレクサンドル三世」 は呆あき
れ三太にし、 「ボロジノ」 は襤褸ぼろ
出ろ、 「アリョール」 は蟻あり
寄る、 「ドミトリー・ドンスコイ」 が、ゴミ取り権助といったぐあいに教えた。 毎日、射手を集めては艦型図を示し、 「これは何という軍艦だ」 と、水兵に当てさせるのである。
「水漏も るぞです」 と水兵が答えれば、二一〇三トンの巡洋艦
「イズムルード」 のことであった。 |