戦艦三笠が、ふつう西水道と呼ばれている対馬西方の海域を過ぎたのは夜のうちであった。
夜が明けると、まわりの景色が一変していた。
左舷に見える黄色っぽい山は、すでに朝鮮の巨済島（きょさいとう） の山であり、やがて三笠は島々の間を割り込むようにして加�ｺ（かとく） 水道へ入りはじめた。
加�ｺ水道のあちこちにすでに先着している艦隊が錨をおろしており、さらに奥へ入ると、そこは巨済島によって海外から遮断された海の奥座敷である。ここがバルチック艦隊が来るまでの隠れ場所として東郷艦隊が選んだ場所であり、朝鮮からむりやりに借用した場所でもあった。
三笠の右前方に青い岬（みさき） が見えてきた。固城半島と呼ばれている小さな半島で、その半島が一湾を抱き込んでおり、そこが鎮海湾である。
このあたりの水路は十分に測量されており、航路標識が点々とおかれていて、このため暗礁（あんしょう） にぶち当たるような不安はなかったが、船の歩く道筋は狭く、二筋ぐらいしかなかった。
三笠はつるゆると湾内に入り、やがて松真浦（しょうしんぽ） といわれるあたりに錨をおろした。
驚くべきことに、陸上にはこの艦隊が使用すべき何の建物も建てられていなかった。むろん、艦隊の乗組員をなぐさめるべき慰安設備もなく、待機がいかに長期にわたろうとも司令官以下すべて艦内ぐらしをするしかないといった状態であった。要するに韓国の領土である陸上とはなんの交通もなかったのである。
東郷がここでやったことというのは、全艦隊の乗組員をへとへとにするほどの猛訓練であった。
「あの時期ほどつらかったことはない」
と、どの水兵も述懐した。
東郷の勝利案というのは複雑な思考の上に成立しているというものではなく、それらをすべてはらいのけて、簡単明瞭なものになっていた。
「短時間内に弾を一弾でも多く当てる」
というものであり、それには射撃訓練を徹底的にやればよい。
大砲の射撃については、日本人は必ずしも上手くはなかった。陸軍にあっても、観戦武官の中にはロシア軍砲兵のほうがすぐれているのではないかと見た者もあり、その程度だった。
ロシア軍は一種民族的性向に根ざしているのかと思われるほどに伝統的に大砲に強い執念を持っていた。ひとつには歴史的所産ということも考えられるであろう。砲兵の用兵が得意で砲をふんだんんい使用したナポレオンの侵略をうけたのがロシアであり、当然、その影響を受けたということもいえる。
海軍の方も、旅順艦隊の射撃能力は相当なものであった。これと去年の八月十日、黄海で決戦した東郷艦隊は、必ずしも射撃の成績がよくなかった。東郷にすれば黄海での苦汁を二度とのむべきでなく、日本海軍の射撃能力を黄海の段階から飛躍せねばなだず、それにはこの鎮海湾において猛訓練し、彼らを生まれ変わったような天才的な域にまで高めねばならなかったのである。