佐世保を出た三笠は、白い航跡を曳きつつ西北へ針路をとった。 この季節にしては海洋はおだやかで、西方に多少濛気
があり、このため左舷さげん に見える五島列島の山々が、淡くひと刷は
けで刷いたようにかすみ、いかにも翠黛すいたい
といった感じの色調をなしていた。 (いkにも、日本だな) と、真之は思った。絵心のある真之は日本の風景は水蒸気がつくると思っており、この風景の感情的表現は油絵の絵具では至難であると考えていた。 昼食のあと、真之は前甲板まで散歩した。前部主砲の下をくぐって右舷に出ると、平戸島ひらどしま
が見えた。島の上に白雲がかぶさり、その下に竹木が繁茂し、いかにも物成りのいい国であることを思わせた。これも水蒸気の多い気候風土のおかげであるに違いなかった。 日本は、外国に売るべき資源もなく、ただ水っぽい土壌の上に成る稲の穂をしごいては食っているだけの農業国家にすぎなかったが、無理に無理を重ねて三笠のような軍艦を持ち、大海戦をやるに堪える連合艦隊をそろえた。この国土のどこからその金をひねり出したかと思うと、真之でさえ奇蹟のような思いがする。 (これも、水蒸気のおかげ) と、ふと思ったりした。 水蒸気といえば、海上に春霞はるがずみ
の立ちこめるころにバルチック艦隊が日本にやって来るようなことになれば、連合艦隊は相当な不利益を覚悟しなければならない。 そうなれば敵艦を遠望して弾を当てることがむずかしくなり、場合によってはとり逃がしてしまうはめになるかもしれない。一隻二隻でどもウラジオに逃げ込まれてしまえば日本の海上輸送の安全にとって大きな脅威になり、満州への補給が危機にさらされることになるのである。こにため東郷に与えられている義務は、一艦残らず沈めよ、というものであった。 このため真之は昼夜となく攻撃を繰り返す七段構えの戦法を用意しているのだが、それが、昼はもや・・
が立ちこめ、夜は濃霧が海面をとざせばどうなるであろう。 (ねがわくば、五月に来てもらいたい) と、真之は祈るような気持でいた。五月は五月晴さつきば
れという言葉があるようによく晴れて視界のきく日が多い。それをすぎて梅雨期に来てもらっても困るのである。日本に天佑てんゆう
が輝くとすればバルチック艦隊が五月中旬あたりに来てくれることであった。 前甲板の前半分は、錨いかり
甲板とも呼ばれている。この錨甲板の両舷に錨座アンカー・ベッド
があり、重さ五三八五キロの錨がそれぞれ一個ずつ置かれてある。 真之はぎるりとまわって、そのあと後甲板のほうへ行った。 後甲板のデッキは、チーク材が張られている。この後甲板から仰げば、大いなる大檣メインマスト
がそびえており、黒茶色の煙がそのなかごろをかすめてうしろへ走っていった。甲板のチーク材は不必要なほどに分厚く、その重厚さが、踏んで行く靴底に伝わってくる。この艦がいかに入念に造艦されたものであるかは、この甲板ひとつでも分かるのである。
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