〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-]』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(六)
 

2015/07/13 (月)

鎮 海 湾 (六)

三笠は佐世保に入港した。佐世保を離れれば一路、南朝鮮の鎮海湾へ行く。
佐世保を出たのは、二月二十日である。
河合氏は、語る。
「佐世保港はご存じのように、大変幅の狭い港です。三笠が出て行くのが、両岸の村々からよく見えます。その沿岸の村々に小学生がたくさん出ていて、日の丸の小旗を振りながら見送ってくれました」
「軍艦行進曲」
というポピュラーな曲が三笠艦上で演奏されたのは、日本海海戦を通じてこの時だけであった。おそらく、両岸の村々で小旗を振っている小学生に応えるためにこの演奏がおこなわれたのであろう。
「なにぶん当時の軍艦行進曲はハ長調ですからずいぶん音が高くて吹きにくかったが、力強さはあったかもしれません」
二十六人が後甲板に整列し、軍楽師丸山寿次郎が、准士官の軍服を着て指揮をした。
歌詞は、鳥山啓の 「此の城」 であることはしでに述べた。

守るも攻めるも鋼鉄くろがね
浮かべる城ぞ頼みなる
浮かべるその城日の本の
皇国みくに四方よも を守るべし
まがねのそのふね 日の本に
あだ なす国を攻めよかし

石炭いわきけむり はわたつみの
たつ かとばかりなび くなり
弾丸たま うつ響はいかずち
声かとばかりどよむなり
万里の波濤を乗り越えて
皇国みくに の光輝かせ
フルートは加藤武一 (のち爆死) という青年が吹き、河合太郎氏はコルネットを吹いていた。オーボエだけは配置がなかった。このとき演奏した軍楽隊員のうち十人以上が戦後、三笠が火薬爆発を起こしたときに艦と運命をともにした。
「演奏している私たちは、まだ若かったせいか。わけもなく涙がこみあげて仕方がありませんでした」
と、河合氏は語っておられる。
佐世保港を出ると、やや浪が高かった。三笠は、一路、鎮海湾をめざした。
三笠には、その弾薬庫にある下瀬火薬とともに、もっとも誇るべきもおとして三六式無線電信機が、後部シェルターデッキの下に備えられていた。
秋山真之が、戦後すぐ、この無線機の発明者である木村俊吉博士へお礼の電報を打ち、あとあとまで、
「通信戦に関する限り、日本海軍のひとり舞台だった」
と語っていたほどに、その性能がすぐれていた。この日露戦争の前、日本海軍が無線の実用化のために払った苦心と努力はすさまじいほどのもので、日本は作戦と艦隊運動の優越をもってロシアに対抗する以外になく、それを実際の海上で可能にするのは、優秀な無線機であった。
このこの航海中、真之はよほど気になっていたらしく、しばしば後部シェルターデッキの下へ行って、この無線機の操作を見た。
『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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