〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-]』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(六)
 

2015/07/13 (月)

鎮 海 湾 (五)

瀬戸口藤吉が、准士官相当の軍楽師になっやころ、当時の軍楽長中村裕庸が彼を呼んで、
「外国には、国家の次にその国を代表する歌があるが、残念ながら日本にはない。おまえ、作曲してみないか」
と言って、華族女学校の先生である鳥山啓という人のつくった 「軍艦」 という歌詞を示した。もっとも瀬戸口にこれをすすめたのは、中村裕庸ではなく先輩の軍楽師の田中穂積ほずみ という人だったともいう。
いずれにせよ、国民的な歌唱の主題として 「軍艦」 が選ばれたというのはいかにも明治国家らしく、或る意味では象徴的なことであった。
鳥山啓の歌詞は、はじめ 「此の城」 という題がついていた。瀬戸口に示されて時は、すでに別な曲もついていて、明治二十六年発行の井沢修二編 「小学唱歌」 巻六に掲載されていた。この当時著作権などはやかましくなく、どうも鳥山啓へ海軍からあいさつがあったという形跡がない。
瀬戸口はこの作曲に熱中し、つくりあげて 「軍艦」 という題にして明治三十年に発表したが、それが気に入らず、一年ほど推敲すいこう を重ねて 「軍艦行進曲」 を仕上げ、明治三十三年四月三十日、神戸沖観艦式ではじめて演奏された。
このころの 「軍艦行進曲」 はハ長調で、その後のものとは少し違っている。その後、歌うのに高すぎるということで、明治四十三年、ピアノ編曲で出版されるとき瀬戸口がこれをト長調にあらためた。
以上に次第であるために、この時期、三笠乗組の軍楽隊が持っていた楽譜はハ長調のものであった。
さらには、文久三年の薩英戦争のときに、薩摩藩士の記憶では戦闘中の英国軍艦の上で軍楽が吹奏されていたというが、その後の日本海軍にあっては、戦闘中に軍楽が吹奏されることはなかった。
河合太郎氏が語るように、戦闘中は軍楽隊員は戦闘のメンバーに組み込まれた。
河合太郎氏は、いざ戦闘の場合、十二インチ主砲の砲塔の伝令で、無線助手を兼ねることになっていたし、他の隊員は信号助手として艦橋に配置される予定になっていたり、あるいは負傷者運搬員になるべく任務づけられていた。それらはいずれも敵の砲弾がもっとも多く集中し破裂する場所であり、軍楽隊員の死傷率がもっとも高いであろうということは予想されていた。
「日夜、水兵とともに訓練をかさねていましたが、軍楽隊員は平素の音楽教育によって耳の訓練が出来ている上に、鋭敏な神経、正確な発音が練磨されているというので、大変重宝がられました」
と、河合氏は語っている。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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