〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-]』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(六)
 

2015/07/12 (日)

鎮 海 湾 (四)

三笠が航海している間に、海軍軍楽他について考えておきたい。
最初に軍楽隊を創設したのは維新前後にもっとも開明的な藩であった薩摩藩であり、海軍軍楽隊初代軍楽長の中村裕庸すけつね の 「遺構」 によると、
「明治二年、鹿児島藩ニおい テ、藩士鎌田新平ヲ楽長トシテ、三十余名ノ青年ヲ横浜ニ派出シ、英国海軍軍楽隊長フェントンニ就キ、軍楽を伝習セシム」
と、ある。フェントンとは、当時横浜の英国公使館護衛の名目で、横浜木や郊の妙香寺という寺院を兵舎として駐屯ちゅうとん していた英国陸軍歩兵第十番隊付の軍楽長ジョン・イリアム・フェントンのことだが、偶然ながら彼らは日本の海軍軍楽隊の最初の教師になったというだけでなく、このときから日本における西洋音楽の歴史がはじまるといっていいであろう。薩摩藩が、西洋音楽に興味を持ったのは、文久三年 (一八六三) 七月、この藩が鹿児島湾において英国艦隊と戦った戦闘が契機になっている。この戦いでは、いま三笠に座上している東郷平八郎も父吉左衛門および二人にの兄とともに、齢十七で参加した。彼は五ッつた定紋じょうもん を打った陣笠をかぶり、ツツソデのブッサキ羽織にタチアゲばかま をはき、両刀を帯し、火縄銃をもち、母親の益子の 「負クルナ」 という声にはげまされて家を出、持ち場についた。英国艦隊は艦砲で尖頭弾せんとうだん火箭かせん を送り、薩摩藩は沿岸砲に円弾をこめて応酬し、戦闘は結局は勝敗なしの引き分けといった結果になったが、この戦闘中、英国軍艦の上では士気を鼓舞するためにしばしば軍楽が吹奏され、それを聞いた薩摩藩士たちは敵の身ながら感動し、戦後、
「あれはよこもんじゃった」
ということになって、いつか機会があれば藩に取り入れたいという相談があった。それが実現したのが明治二年の横浜派遣で、派遣された若者は二十九人であった。
これが明治四年、兵部省ひょうぶしょう 付属になり、翌五年兵部省が廃止され陸海軍両省がおかれたときこの軍楽隊が陸軍と海軍に二分された。
このため、海軍軍楽隊のメンバーにはこの日の日露戦争の時期でもなお薩摩人が多く、 「軍艦行進曲マーチ 」 の作曲で有名な瀬戸口藤吉も薩摩生まれで、明治十五年海軍軍楽隊生徒になった。
「父が音楽というものにはじめて接したのは、海軍に入ってからです。
と、その子息の瀬戸口晃氏が語っておられる。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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