〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-]』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(六)
 

2015/07/12 (日)

鎮 海 湾 (三)

この時三笠の乗組みを構成している中で、軍楽隊というグループがある。
むろん第二、第三艦隊の旗艦にもそれぞれ分乗しているが、三笠が連合艦隊の旗艦であったために、その人数は多かった。
いざ戦闘になれば、楽器から離れて戦闘に従事した。その戦闘中の仕事は、上甲板と中甲板に分かれて主として負傷者の運搬をしたり、主砲の砲塔の伝令をやったり、艦橋伝令をやったりして、多忙であった。なにしろ危険な上甲板や艦橋で走まわっているため、たとえば去年 (明治三十七年) の八月十日の黄海海戦の時には軍楽隊の中から十数名の負傷者や戦死者が出ている。
軍楽師 (准士官) 丸山寿次郎が、この隊の指揮者であった。彼は音楽のほうはあまり上手でなかったようだが、戦士としての軍楽手の名誉にたえず気をつかい、
「戦闘になれば水兵に負けるな」
と、隊員に言い、この航海中も、救護や伝令の訓練をしていた。
隊員は、丸山以下二十七人で、この中に、三等軍楽手になったばかりの河合太郎氏がいた。
河合氏は明治十七年生まれで、旧海軍軍楽隊の長老であり、このとき三笠の軍楽隊にあってコルネットを吹き、今も広島呉市でかくしゃくとしておられる。
「丸山さんというのは軍楽長というより、掌帆長しょうはんちょう といったような元気な人でした」
と、河合氏はいう。
航海中、軍楽隊としての日常的な任務が毎日二度あった。軍艦旗が午前八時に揚げられ、日没時に降ろされる。そのつど軍楽隊は 「君が代 」 を演奏するのである。あとは水兵と一緒に甲板をかけまわって訓練を受けた。
筆者はこの稿を書くについて、この早春 (昭和四十六年) 呉の河合氏に会っていただきたいと思っていたが、せっかくのご承諾を得たのに当日風邪をひいて行けず、サンケイ新聞の景山勲氏に行ってもらった。
河合氏はことし八十七歳になられる。
「中背で、ほっそりしておられます。話される内容は若々しく、おどろくほど合理的で、耳も遠くなく、ぜんたいに機敏な感じで、潮風で鍛えられた知性という感じを受けました」
と、景山氏は私に教えてくれた。
写真でよく知られている瀬戸口藤吉とうきち 翁に似ておられる、という。げんに、若いころよく間違えられたということであった。
氏は老夫人と二人暮しだが、呉の海上自衛隊の軍楽隊長が三日にあげず身辺の見舞をつづけているということで、このことを聞いた景山氏は 「海軍の伝統というのでしょうか」 と、ひどく感動したようであった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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