入り口から、二町ばかりも進んだころ、ふと彼は洞窟の底から、カッカッと間をおいて響いてくる音を耳にした。彼は最初それが何であるか判らなかった。が、一歩進むに従って、その音は拡大していって、おしまいには洞窟の中の夜の寂静
のうちに、こだまするまでになった。 それは、明らかに岩壁に向かって鉄槌を下す音に相違なかった。 実之助は、その悲壮な、すごみをおびた音によって、自分の胸がはげしく打たれるのを感じた。 奥に近づくに従って、玉を打ち砕くような鋭い音は、洞窟の周囲にこだまして、実之助の聴覚を、猛然と襲ってくるのであった。 彼はこの音を頼りにはいりながら、近づいて行った。この槌の音の主こそ、敵了海に相違あるまいと思った。 ひそかに一刀の鯉口こいぐち
を湿しながら、息をひそめて寄り添うた。そのとき、ふと彼は槌の音の合い間合い間にささやくがごとく、うめくがごとく、了海が、経文を誦じゆ
する声を聞いたのである。 そのしわがれた悲壮な声が、水を浴びせるように実之助の心に徹してきた。深夜、人去り、草木眠っているなかに、ただ暗中に端坐して鉄槌を振るっている了海の姿が、墨すみ
のごとき闇にあってなお、実之助の心眼に、ありありとして映ってきた。それは、もはや人間の心ではなかった。 喜怒哀楽の情の上にあって、ただ鉄槌を振るっている勇猛精進の菩薩心であった。実之助は握りしめた太刀の柄つか
が、いつの間にかゆるいんでいるのを覚えた。彼はふと、我に返った。すでに仏心を得て、衆生しゅじょう
のために、砕身の苦をなめている高徳の望のぞみ
に対し、深夜の闇に乗じて、おいはぎのごとく、獣のごとく、瞋恚いんい
の剣を抜きそばめている自分を顧みると、彼は、強い戦慄せんりつ
がからだを伝うて流れるのを感じた。 洞窟を揺るがせたその力強い槌の音と、悲壮な念仏の声とは、実之助の心をさんざんに打ち砕いてしまった。彼は、いさぎよく竣成の日を待ち、その約束の果さるるのを待つよりほかはないと思った。 実之助は、深い感激を抱きながら、洞外の月光を目指し、洞窟の外に這い出たのである。 |