〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-]』 〜 〜
── 恩 讐 の 彼 方 に ──
 

2015/07/10 (金) 

四 ノ D

入り口から、二町ばかりも進んだころ、ふと彼は洞窟の底から、カッカッと間をおいて響いてくる音を耳にした。彼は最初それが何であるか判らなかった。が、一歩進むに従って、その音は拡大していって、おしまいには洞窟の中の夜の寂静じゃくじょう のうちに、こだまするまでになった。
それは、明らかに岩壁に向かって鉄槌を下す音に相違なかった。
実之助は、その悲壮な、すごみをおびた音によって、自分の胸がはげしく打たれるのを感じた。
奥に近づくに従って、玉を打ち砕くような鋭い音は、洞窟の周囲にこだまして、実之助の聴覚を、猛然と襲ってくるのであった。
彼はこの音を頼りにはいりながら、近づいて行った。この槌の音の主こそ、敵了海に相違あるまいと思った。
ひそかに一刀の鯉口こいぐち を湿しながら、息をひそめて寄り添うた。そのとき、ふと彼は槌の音の合い間合い間にささやくがごとく、うめくがごとく、了海が、経文をじゆ する声を聞いたのである。
そのしわがれた悲壮な声が、水を浴びせるように実之助の心に徹してきた。深夜、人去り、草木眠っているなかに、ただ暗中に端坐して鉄槌を振るっている了海の姿が、すみ のごとき闇にあってなお、実之助の心眼に、ありありとして映ってきた。それは、もはや人間の心ではなかった。
喜怒哀楽の情の上にあって、ただ鉄槌を振るっている勇猛精進の菩薩心であった。実之助は握りしめた太刀のつか が、いつの間にかゆるいんでいるのを覚えた。彼はふと、我に返った。すでに仏心を得て、衆生しゅじょう のために、砕身の苦をなめている高徳ののぞみ に対し、深夜の闇に乗じて、おいはぎのごとく、獣のごとく、瞋恚いんい の剣を抜きそばめている自分を顧みると、彼は、強い戦慄せんりつ がからだを伝うて流れるのを感じた。
洞窟を揺るがせたその力強い槌の音と、悲壮な念仏の声とは、実之助の心をさんざんに打ち砕いてしまった。彼は、いさぎよく竣成の日を待ち、その約束の果さるるのを待つよりほかはないと思った。
実之助は、深い感激を抱きながら、洞外の月光を目指し、洞窟の外に這い出たのである。

『恩讐の彼方に』 著:菊池 寛 ヨリ

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