〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-]』 〜 〜
── 恩 讐 の 彼 方 に ──
 

2015/07/10 (金) 

四 ノ E

そのことがあってから間もなく、刳貫の工事に従う石工のうちに、武家姿の実之助の姿が見られた。彼はもう、老僧を闇討ちにして、立ち退こうというような険しい心は、少しも持っていなかった。了海が逃げも隠れもせぬことを知ると、彼は好意をもって了海が、その一生の大願を成就する日を、待ってやろうと思っていた。
が、それにしても茫然ぼうぜん と待っているよりも、自分もこの大業に一臂いっぴ の力を尽くすことによって、いくばくかでも復讐の期日が短縮せられるはずであることを悟ると、実之助はみずから石工に して、槌を振るい始めたのである。
敵と敵が、し並んで槌をおろした。実之助は、本懐を達する日の一日も早かれと、懸命に槌を振るった。了海は実之助が出現してからは、またさらに精進の勇を振るって、狂人のように岩壁を打ち砕いていた。
そのうちに、月が去り月が来た。実之助の心は、了海の大勇猛心に、動かされて、彼みずから、刳貫の大業に讐敵のうら みを忘れようとしがちであった。
石工どもが、昼の疲れを休めている真夜中にも。敵と敵とはあい並んで、黙々と槌を振るっていた。
それは了海が、樋田の刳貫に第一の槌を下してから、二十一年目、実之助が、了海にめぐり会ってから一年六か月を経た延享えんきょう 三年九月十日の夜であった。
この夜も石工どもは、ことごとく小屋に退 いて、了海と実之助のみ終日の疲労にめげず、懸命に槌を振るっていた。
その夜九つに近きころ了海が、力を込めて振り下ろした槌が、朽木を打つがごとくなんの手ごたえもなく力余って、槌を持った右のてのひら が岩に当ったので、彼は 「アッ」 と、思わず声を上げた。
そのときであった。了海の朦朧もうろう たる老眼にも、まぎれもなくその槌に破られたる小さき穴から、月の光に照らされる山国川の姿が、ありありと映ったのである。
了海は 「おう!」 と、全身をふるわせるような名状し難き叫声をあげたかと思うと、それにつづいて狂したかと思われるような歓喜の泣き笑いが、洞窟をものすごく動揺うご めかしたのである。
「実之助どの、ご覧なされ。二十一年の大誓願ははしなくも今宵成就いたしました」
こい言いながら、了海は実之助の手をとって、小さい穴から山国川の流れを見せた。その穴の真下に黒ずんだ土の見えるのは岸に添う街道にまぎれもなかった。敵と敵とは、そこに手を取り合うて、大歓喜の涙にむせんだのである。が、しばらくすると了海は身を退すさ って、
「いざ、実之助どの、約束の日じゃ、お斬りなされい。かかる法悦の真ん中に往生いたすなれば、極楽浄土に生まるること、必定疑いなしじゃ。いざお斬りなされい。明日ともなれば、石工どもが、妨げをいたそう。おざお斬りなされい」
と、彼のしわがれた声が洞窟の夜の空気に響いた。が、実之助は、了海の手をこま いてすわったまま、涙にむせんでいるばかりであった。
心の底からわきいずる歓喜に泣くしなびた老僧の顔を見ていると、彼を敵として殺すことなどは、思いも及ばぬことであった。敵を打つなどという心よりも、このか弱い人間の双のかいな によって成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸がいっぱいであった。
彼はいざり寄りながら、ふたたび老僧の手をとった。二人はそこにすべてを忘れて、感激の涙にむせび合うたのであった。

『恩讐の彼方に』 著:菊池 寛 ヨリ