〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-]』 〜 〜
── 恩 讐 の 彼 方 に ──
 

2015/07/09 (木) 

四 ノ C

実之助も、そういわれてみると、その哀願をきかぬわけには、いかなかった。いまここで、あだ を討とうとして、群衆の妨害を受けて不覚をとるよりも、刳貫の竣工を待ったならば、今でさえ自ら進んで討たれようという市九郎が、義理に感じて首を授けるのは、必定であると思った。またそうした打算から離れても、仇とはいいながらこの老僧の大誓願を遂げさせてやるのも、決して不快なことではなかった。実之助は、市九郎と群集とを等分に見ながら、
「了海の僧形にめでてその願い許してとらそう。つがえた言葉を忘れまいぞ」 と、言った。
「念もないことでござる。一分の穴でも、一寸の穴でも、この刳貫が向こう側へ通じた節は、その場を去らず了海さまを討たせ申そう、それまではゆるゆると、この辺りにご滞在なされませ」 と、石工の棟梁とうりょう は、おだやかな口調で言った。
市九郎は、この紛擾ふんじょう が無事に解決がつくと、それによって徒費した時間がいかにも惜しまれるようににじりながら洞窟の中に入って行った。
実之助は、たいせつの場合に思わぬ邪魔が入って、目的が達し得なかったことを憤った。
彼はいかんともしがたい鬱憤うっぷん をおさえながら、石工の一人に案内せられて、木小屋のうちへ入った。自分ひとりになって考えてみると、仇を目の前に置きながら、討ち得なかった自分の腑甲斐ふがい なさを、無念と思わずにいられなかった。彼の心はいつの間にか ら立たしい憤でいっぱいになっていた。
彼は、もう刳貫の竣成を待つといったような、敵に対するゆるやかな心をまったく失ってしまった。
彼は今宵こよい にも洞窟の中へ忍び入って、市九郎を討って立ち退こうという決心のほぞを固めた。が、実之助が市九郎の張り番をしているように、石工たちは実之助を見張っていた。
最初の二、三日を、心にもなく無為に過ごしたが、ちょうど五日目の晩であった。毎夜のことなので、石工たちも警戒の眼をゆるめたとみえ、うし に近いころにはなんびともいぎたない眠りにはいっていた。
実之助は、今宵こそろ思い立った。彼は、がばと起き上がると、枕元まくらもと の一刀を引き寄せて、静かに木小屋の外に出た。それは早春の夜の月が冴えた晩であった。山国川の水は月光の下に青く渦巻きながら流れていた。が、周囲の風物には眼もくれず、実之助は、足を忍ばせてひそかに同門に近づいた。削り取った石塊が、ところどころに散らばって、歩を運ぶたびごとに足を痛めた。
洞窟の中は、入り口から来る月光と、ところどころにきり開けられた窓から射し入る月光とで、ところどころほの白く光っているばかりであった。彼は右方の岩壁を手探り手探り奥へ奥へと進んだ。

『恩讐の彼方に』 著:菊池 寛 ヨリ

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