〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-]』 〜 〜
── 恩 讐 の 彼 方 に ──
 

2015/07/09 (木) 

四 ノ B

市九郎は、少しもわるびれなかった。もはや、期年のうちに成就すべき大願を見果てずして、死ぬことがやや悲しまれたが、それもおのれが悪業の報いであると思うと、彼は死すべき心を定めた。
「実之助さま、いざお斬りなされい。お聞き及びもなされたろうが、これは了海 が、罪滅ぼしに、掘りうがとうと存じた洞門でござるが、十九年の歳月を費やして、九分まで竣工しゅんこう いたした。了海身を果つるとも、もはや年を重ねずして成り申そう。御身の手にかかり、この洞門の入り口に血を流して人柱となり申さば、はや思い残すこともござりませぬ」 と、言いながら、彼は見えぬ眼をしばたいたのである。
実之助は、この半死の老僧に接していると、親の敵に対して抱いていた憎しみが、いつの間にか、消え失せているのを覚えた。
敵は、父を殺した罪の懺悔に、心身を砕いて、半生を苦しみぬいている。しかも、自分が一度名乗りかけると、唯々として、命を捨てようとしているのである。
かかる半死の老僧の命を取ることが、なんの復讐であるかと、実之助は考えたのである。
がいしかしこの敵を打たざる限りは、多年の放浪を切り上げて、江戸へ帰るべきよすがは、なかった。まして家名の再興などは、思いも及ばぬことである。
実之助は、憎悪よりも、むしろ打算の心から、この老僧の命を縮めようかと思った。が、はげしい燃ゆるがごこき憎悪を感ぜずして、打算から人間を殺すことは、実之助にとって忍び難いことであった。
彼は、消えかかろうとする憎悪の心を、励ましながら、打ちがいなき敵を打とうとしたのである。
そのときであった。洞窟の中から、走り出て来た五、六人の石工は、市九郎の危急を見ると、挺身ていしん して彼をかばいながら、
「了海さまをなんとするのじゃ」 と実之助をとがめた。彼らの面には仕宣しぎ によっては、許すまじき色がありありと見えた。
仔細しさい あって、その老僧を敵とねらい、はしなくも今日めぐり会うて、本懐を達するものじゃ、妨げいたすと余人なりとも容赦ようしゃ はいたさぬぞ」 と、実之助は凛然りんぜん と言った。
が、そのうちに、石工の数は増え、行路の人々が、幾人となく立ち止まって、彼らは実之助を取り巻きながら、市九郎のからだに、指の一本も触れさせまいと、銘々にいきまきはじめた。
「敵を打つ打たぬなどは、それはまだ世にあるうちのことじゃ。見らるるとおり、了海どのは、染衣せんい 薙髪いはつ の身であるうえに、この山国谿七郷の者にとっては、持地菩薩じじぼさつ の再来ともあおがれる方じゃ」 と、そのなかのある者は、実之助の敵打ちを、かなわぬ非望であるかのように言い張った。
が、こう周囲の者から、妨げられると、実之助の敵に対する怒りはいつの間にか、よみがえ っていた。
彼は武士の意地として、手をこま ねいて立ち去るべきではなかった。
「たとい沙門しゃもん の身なりとも、主殺しの大罪は免れぬぞ。親の敵を打つ者を妨げいたす者は、一人も容赦はない」 と、実之助は、一刀のさや を払った。実之助を囲う群集も、皆ことごとく身構えた。
すると、そのときに市九郎は、しわがれた声を張り上げた。
「皆の衆、お控えなされ。了海、打たるべき覚え十分ござる。この洞門をうがつことも、ただその罪滅ぼしのためじゃ。いまかかる孝子のお手にかかり、半死の身を終わること、了海が一期の願いじゃ。皆の衆妨げ無用じゃ」
こう言いながら市九郎は、身を挺して実之助のそばに、いざり寄ろうとした。かながね、市九郎の強剛なる意思を、知り抜いている周囲の人々は、彼の決心を翻すべきよしもないのを知った。市九郎の命、ここに了るかと思われた。そのときに石工の統領が、実之助の前に進む出ながら、
「お武家さまも、お聞き及びでもござろうが、この刳貫こうかん は了海さま、一生の大誓願にて、二十年近きご辛苦に心身をくだかれたのじゃ。いかに、ご自身の悪業とはいえ、大願成就を目の前におきながら、お果てなさること、いかばかり無念であろう。われらのこぞってのお願いは、長くとは申さぬ、この刳貫の通じ申す間、了海さまのお命を、われわれに預けてはくださらぬか。刳貫さえ通じた節は、即座に了海さまをぞんぶんになさりませ」 と彼はまことを表して哀願した。群集は、口々に、
「ことわりじゃことわりじゃ」 と、賛成した。

『恩讐の彼方に』 著:菊池 寛 ヨリ

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