そこまでは、もう一町もなかった。見ると、川の左にそびえる荒けずりされたような山が、山国川に臨む所で、十丈に近い絶壁にきり截
たれて、そこに灰白色のギザギザした襞ひだ
の多い肌はだ を露出しているのであった。山国川の水は、その絶壁に吸い寄せられたように、ここに慕い寄って、絶壁の裾すそ
を洗いながら、濃緑の色をたたえて、渦巻うずま
いている。 里人らが、鎖渡しといったのはこれだろうと、彼は思った。道は、その絶壁に絶たれ、その絶壁の中腹を、松、杉などの丸太を、鎖でつらねた桟道さんどう
が、危あやう げに伝わっている。かよわい婦女子でなくとも、俯ふ
して五丈にあまる水面を見、仰いで頭を圧する十丈に近い絶壁を見るときは、魂消たまぎ
え、心おののくのも理ことわ りであった。 市九郎は、岩壁にすがりながら、おののく足を踏みしめて、ようやく渡り終わってその絶壁を振り仰いだ刹那、彼の心にはとっさに大誓願が、勃然ぼつぜん
としてきざした。 積むべき贖罪しょくざい
のあまりに小さかった彼は、自分が精神勇猛の気を試すべき難業にあうことを祈っていた。 今目前に行人が艱難かんなん
し、一年に十に近い人の命を奪う難所を見たとき、彼は、自分の身命を捨ててこの難所を除こうという思いつきが旺然おうぜん
として起こったのも無理ではなかった。 二百余間に余る絶壁をくり貫いて道を通じようという、不敵な誓願が、彼の心に浮かんで来たのである。 市九郎は、自分が求め歩いたものが、ようやくここで見つかったと思った。一年に十人を救えば、十年に百人、百年、千年と経た
つうちには、千万の人の命を救うことが出来ると思ったのである。 こう決心すると、彼は、いちずに実行に着手した。その日から、羅漢寺の宿坊に宿りながら、山国川に添うた村々を勧化かんげ
して、隧道ずいどう 開鑿かいさく
の大業の寄進を求めた。 が、なんびともこの風来僧ふうらいそう
の言葉に、耳を傾ける者はなかった。 「三町も越える大磐石を、くり貫こうという瘋狂人ふうきょうじん
じゃ、ハハハ」 と笑う者は、まだよかった。 「大たかりじゃ、針のみぞから天をのぞくようなことを言い前にして、金を集めようという、大かたりじゃ」 と、なかには市九郎の勧説に、迫害を加うる者さえあった。 市九郎は、十日の間、いたずらな勧進につとめたが、なんびとも耳を傾けぬのを知ると、奮然として、独力この大業にあたることを決心した。 彼は、石工の持つ槌つち
と、鑿のみ を手に入れて、この大絶壁の一端に立った。それは、一個のカリカチュアであった。けずり落としやすい火山岩であるとはいえ、川を圧してそびえ立つ蜿蜒えんえん
たる大絶壁を、市九郎は、おのれ一人の力で、くり貫こうとするのであった。 「とうとう気が狂った!」 と、行人は、市九郎の姿をさしながら笑った。 が、市九郎は屈しなかった。山国川の清流に沐浴もくよく
して観世音菩薩かんぜおんぼさつ
を祈りながら、渾身こんしん の力を込めて第一の槌をおろした。 それに応じて、ただ二、三片の砕片さいへん
が、飛び散ったばかりであった。が、ふたたび力をこめて第二の槌をおろした。さらに二、三片の小塊が、巨大なる無限大の大塊から、分離したばかりであった。 第三、第四、第五と市九郎は懸命けんめい
に槌をおろした。空腹を感ずれば、近郷を托鉢たくはつ
し、腹満つれば絶壁に向かって槌をおろした。 懈怠けたい
の心を生ずれば、ただ真言を唱えて、勇猛の心を振るい起こした。一日、二日、三日、市九郎の努力は間断なくつづいた。 旅人は、そのそばを通るたびに、嘲笑ちょうしょう
の声を送った。が、市九郎の心は、そのために須臾しゆゆ
もたゆむことはなかった。嗤笑ししょう
の声を聞けば、彼はさらに槌を持つ手に力をこめた。 |