〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-]』 〜 〜
── 恩 讐 の 彼 方 に ──
 

2015/07/06 (月) 

三 ノ A

享保九年の秋であった。彼は、赤間が関から小倉に渡り、豊前の国宇佐八幡宮を拝し、山国川をさかのぼって耆闍屈山羅漢寺きしゃくつさんらかんじもう でんものと、四日市よっかいち から南に赤土の茫々ぼうぼう たる野原を過ぎ、道を山国川の渓谷に添うてたどった。
筑紫つくし の秋は、駅路えきろ の宿りごとにふけて、雑木の森にははじ 赤くただれ、野には稲黄色くみのり、農家の軒には、このへんの名物の柿が、真紅のたま をつらねていた。
それは八月に入って間のないある日であった。
彼は、秋の朝の光に輝く、山国川の清冽せいれつ な流れを右に見ながら、三口から仏坂の山道を越えて、午近きころ樋田ひだ の駅に着いた。
さびしい駅で昼食ちゅうじきとき にありついたのち、ふたたび山国谿だに に添うて南をさした。樋田駅から出はずれると、道はまた山国川に添うて、火山岩の河岸かし を伝うて走っていた。
歩みがたい石高道を、市九郎は、つえ を頼りにたどっていたとき、ふと道のかたわらに、このへんの農夫であろう、四、五人の人々がののしり騒いでいるのを見た。
市九郎が近づくと、その中の一人は、早くも市九郎の姿を見つけて、
「これは、よい所へ来られた。非業ひごう の死を遂げた、あわれな亡者じゃ。通りかかられた縁に、一遍の回向えこう をしてくだされ」 と、言った。
非業の死だと聞いたとき、剽賊ひょうぞく のためにあやめられた、旅人の死骸ではあるまいかと思うて、市九郎は過去の悪業を思い起こして、刹那にわく悔恨の心に、両あし のすくむのを覚えた。
「見れば水死人のようじゃが、ところどころ皮肉の破れているのは、いかがした仔細しさい じゃ」 と、市九郎は、おそるおそる聞いた。
「ご出家は、旅の人と見えて、ごぞんじあるまいが、この川を半町も上れば、鎖渡くさりわた しという難所がある。山国谿第一の切所きりしょ で、南北往来の人馬が、ことごとく難儀する所じゃが、この男はこの川上柿坂郷かきさかごう に住んでい馬子まご じゃが、今朝鎖渡しの中途で、馬が狂うたため、五丈に近い所をまっ逆さまに落ちて、見られるとおりの無残な最後じゃ」 と、その中の一人が言った。
「鎖渡しと申せば、かねがね難所とは聞いていたが、かようなあわれを見ることは、たびたびござるのか」 と、市九郎は、死骸を見守りながら、打ちしめって聞いた。
「一年に、三、四人、多ければ十人も、思わぬ憂目うきめ を見ることがある。無双の難所ゆえに、雨風あめかぜかけはし が朽ちても、修繕も思うにまかせぬのじゃ」 と、答えながら、百姓たちは死骸の始末にかかっていた。
市九郎は、この不幸な遭難者に、一遍の経を読むと、足を早めてその鎖渡しへと急いだ。

『恩讐の彼方に』 著:菊池 寛 ヨリ

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