〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-]』 〜 〜
── 恩 讐 の 彼 方 に ──
 

2015/07/05 (日) 

二 ノ C

いつもは、お弓のいうことを、唯々いい としてきく市九郎ではあったが、いま彼の心ははげしい動乱の中にあって、お弓の言葉などは、耳に入らないほど、考え込んでいたのである。
「いくら言っても、行かないのだね。それじゃ、私が一走り行って来ようよ。場所はどこなの、やっぱりいつもの所かい」 と、お弓が言った。
お弓に対して、おさえ難い嫌悪けんお を感じはじめていた市九郎は、お弓が一刻でも自分のそばにいなくなることを、むしろ喜んだ。
「知れたことよ。いつものとおり、薮原の宿の手前の松並木さ」 と、市九郎は吐き出すように言った。
「じゃ、一走り行って来るから。幸い月の夜で戸外そと は明るいし・・・・。ほんとうに、へまな仕事をするったら、ありゃしない」 と、言いながら、お弓はすそ をはしょって、草履ぞうり をつつかけると駆け出した。
市九郎は、お弓のうしろ姿を見ていると、あさましさで、心がいっぱいになってきた。死人の髪の物をはぐために、血眼ちまなこ になって駆け出して行く女の姿を見ると、市九郎はその女に、かつて愛情を持っていただけに、心の底からあさましく思わずにはいられなかった。
そのうえ、自分が悪事をしているとき、たとい無残に人を殺しているときでも、金を盗んでいる時でも、じぶんがしているということが、常に不思議な分疏ぶんそ になって、そのあさましさを感ずることが少なかったが、いったん人が悪事をしているのを、静に傍観するとなると、その恐ろしさ、あさましさが、あくまでも明らかに、市九郎の目に映らずにはいんまかった。
自分が命を してまで得た女が、わずか五両か十両の玳瑁たいまい のために、女性のやさしさのすべてを捨てて、死骸しがい につくおおかみ のように、殺された女の死骸を慕うて駆けて行くのを見ると、市九郎は、もうこの善悪の棲家すみか に、この女といっしょに一刻もいたたまれなくなった。
そう考え出すと、自分の今までに犯した悪事が、いちいちよみがえって自分の心を食い割いた。そめしめ殺した女のひとみや、血みどろになったまゆ 商人のうめき声や、一太刀浴びせかけた髪鬢しらが の老人の悲鳴などが、一団になって市九郎の良心を襲うてきた。
彼は、一刻も早く自分の過去から逃れたかった。彼は、自分自身からさえも、逃れたかった。まして自分のすべての罪悪の、萌芽であった女から、極力逃れたかった。
彼は決然として立ち上がった。彼は、二、三枚の衣類を風呂敷に包んだ。さきいの男から盗った胴巻を、当座の路用としてふところに入れたままに、したくも整えずに、戸外に飛び出した。
が、十間ばかり走り出したとき、ふと自分の持っている金も、衣類も、ことごとく盗んだものであるのに気がつくと、はね返されたように立ち戻って、自分の家の上がりがまち へ、衣類と金とを、力いっぱい投げつけた。
彼は、お弓に会わないように、道でない道を木曾川に添うて、いっさんに走った。どこへ行くというあてもなかった。ただ自分の罪悪の根拠地から、一すん でも、一 でも遠い所へのがれたかった。

『恩讐の彼方に』 著:菊池 寛 ヨリ

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