二人の姿が見えなくなると、お弓は、それとばかり合図をした。市九郎は、獲物を追う猟師
のように、脇差を腰にすると、いっさんに二人のあとを追うた。本街道を右に折れ、木曾川の流れに添うて、けわしい間道を急いだ。 市九郎が、薮原の宿手前の並木道に来た時は、春の長い日がまったく暮れて、十日ばかりの月が木曾の山の彼方に登ろうとして、ほの白い月のしろのみが、木曾の山々をかすかに浮かせていた。 市九郎は、街道に添うて生えている、一むらの丸葉柳の下に、身を隠しながら、夫婦の近づくのを、おもむろに待っていた。 彼も心の底では、幸福な旅をしている二人の男女の生命を、不当に奪うということが、どんなに罪深いかということを、考えずにはいなかった。が、いったんなしかかった仕事を、中止して帰ることは、お弓の手前彼の心にまかせぬことであった。 彼は、この夫婦の血を流したくはなかった。なるべく相手が、自分の脅迫に二言もなく服従してくれればいいと、思っていた。もし彼らが路用の金と、衣装とを出すならばけっして殺生はしまいと思っていた。 彼の決心がようやく固まったころに、街道の彼方から、急ぎ足に近づいて来る男女の姿が見えた。 二人は、峠からの道が、覚悟のほかに遠かったため、疲れきったとみえ、お互いに助け合いながら無言のままに急いで来た。 二人が、丸葉柳の茂みに近づくと、市九郎は、不意に街道の真ん中に突っ立った。そして、今まで幾度も口にし慣れている脅迫の言葉を浴びせかけた。 すると、男は必死になったらしく、道中差を抜くと、妻をうしろにかばいながら身構えした。 市九郎は、ちょっと出鼻を折られた。が、声を励まして、
「いやさ、旅の人、手向かいしてあたら命を落とすまいぞ。命までは取ろうとはいわぬのじゃ。あり金と衣類とをおとなしく出して行け」 と叫んだ。その顔を、相手の男は、じーっと見ていたが、 「やあ!
さきほどの峠の主人あるじ ではないか」
と、その男は、必死になって飛びかかってきた。 市九郎は、もうこれまでだと思った。自分の顔を見覚えられた以上、自分たちの安全のため、もうこの男女を生かすことは出来ないと思った。 相手が必死に斬き
り込むのを、巧みにはずしながら、一刀を相手の首筋に浴びせた。見ると連れの女は気を失ったように道のかたわらにうずくまりながら、ブルブル震えていた。 市九郎は、女を殺すのにしのびなかった。が、彼は自分の危急には代えられぬと思った。男の方を殺して、殺気立っている間にと思って血刀を振りかざしながら、彼は女に近づいた。 女は、両手を合わして市九郎に命を乞こ
うた。市九郎は、そのひとみに見つめられると、どうしても刀を下ろせなかった。が、彼は殺さねばならぬと思った。このとき市九郎の欲心はこの女を斬って、女の衣装をだいなしにしてはつまらないと思った。そう思うと、彼は腰に下げていた手拭てぬぐい
をはずして女の首をしぼった。 市九郎は、二人を殺してしまうと、急に人を殺した恐怖を感じて、一刻もいたたまらないように思った。彼は、二人の胴巻どうまき
と、衣類とを奪うと、あたふたとしてその場からいっさんにのがれた。 彼は、今まで十人に余る人殺しをしたものの、それは半白の老人とか、商人とか、そうした階級の者ばかりで、若々しい夫婦連れを二人まで自分の手にかけたことはなかった。 |