〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-]』 〜 〜
── 恩 讐 の 彼 方 に ──
 

2015/07/05 (日) 

一 ノ A

夜は初更しょこう を過ぎていた。母屋おもや と、中間ちゅうげん 部屋とは、遠く隔たっているので、主従の恐ろしい格闘は、母屋に住んでいる女中以外、まだ誰にも知られなかったらしい。その女中たちは、このはげしい格闘に気を失い、一 の内に集まって、ただ身をふるわせているだけであった。
市九郎は、深い悔恨かいこん にとらわれていた。一個の蕩児とうじ であり、無頼の若武士ではあったけれども、まだ悪事と名のつくことは、なにもしていなかった。まして八逆の第一なる主殺しの大罪を犯そうとは彼の思いもつかぬことだった。彼は、血のついた脇差を取り直した。主人の妾と慇懃いんぎん を通じて、そにために成敗を受けようとしたとき、かえってその主人を殺すということは、どう考えても、彼にいい所はなかった。
彼は、まだビクビクと動いている、主人の死体を尻目にかけながら、静かに自殺の覚悟を堅めていた。
すると、そのとき、次の間から、今までの大きい圧迫から、のがれ出たような声がした。
「ほんとにまあ、どうなることかと思って心配したわ。お前が真っ二つにやられた後は、私の番じゃないかと、先刻から、屏風びょうぶ のうしろで息を殺して見ていたのさ。が、ほんとうにいいあんばいだったね。もうこうなっちゃ、一刻も猶予ゆうよ はしていられないから、あり金さらって逃げるとしよう。まだ、中間ちゅうげん たちは気がついていないようだから、逃げるなら今のうちさ。乳母うば や、女中などは、台所のほうでガタガタふるえているらしいから、私が行って、じたばた騒がないように言ってこようよ。さあ! お前はあり金を捜してくださいよ」
と、言うその声は、たしかにふるえを帯びていた。が、そうしたふるえを、女性としての強い意地で抑制して、つとめて平気を装っているらしかった。
市九郎は ── 自分特有の動機を、スッカリ失くしていた市九郎は、女の声を聞くと、よみがえったように活気づいた。
彼は、自分の意志で動くというよりも、女の意思によって動く傀儡かいらい のように立ち上がると、座敷に置いてあるきり茶箪笥ちゃだんす に手をかけた。そして、その真っ白い木目に、血に汚れた手形をつけながら、抽斗ひきだし をあちらこちらと捜しはじめた。が、女 ── 主人の妾のお弓が帰って来るまでに、市九郎は、二朱銀の五両包みを、ただ一つ見つけたばかりであった。お忌みは、台所から引き返して来て、その金を見ると、
「そんなはした金が、どうなるものかね」 と、言いながら、今度は自分で、やけに抽斗を引っ掻きまわした。しまいには、鎧櫃よろいびつ の中まで捜したが、小判は一枚も出て来はしなかった。
「名うての始末屋だから、かめ にでも入れて、土の中へでも埋めてあるかも知れない」
そういまいましそうに言いきると、金目のありそうな衣類や、印籠いんろう を、手早く風呂敷ふろしき 包みにした。
こうして、この姦夫かんぷ 姦婦が、浅草田原町の旗本中川三郎兵衛の家を出たのは、安永三年の秋の初めであった。あとには、当年三歳になる三郎兵衛の一子実之助が、父の非業ひごう の死も知らず、乳母のふところにスヤスヤ眠っているばかりであった。

『恩讐の彼方に』 著:菊池 寛 ヨリ

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