市九郎は、主人の切り込んでくる太刀
を受け損じて、左の頬ほお から顎あご
へかけて、微傷ではあるが、一太刀を受けた。自分の罪を ── たとえ向こうからいどまれたとはいえ、主人の寵妾ちょうしょう
と非道な恋をしたという、自分の致命的な罪を、意識している市九郎は、主人の振り上げた太刀を、必至な刑罰として、たといその切先を避くるにつとむるまでも、それに反抗する心持は、少しももっていなかった。 彼はただこうした自分の迷いから、命を捨てることが、いかにも惜しまれたので、できるだけ逃れてみたいと思っていた。 それで、主人から不義を言い立てられて斬き
りつけられたとき、あり合わせた燭台しょくだい
を、さっそくその獲物として主人の鋭い太刀を避けていた。が、五十に近いとはいえ、まだ筋骨きんこつ
のたくましい主人が畳かけて切り込む太刀を、攻撃に出られない悲しさには、いつとなく受け損じて、最初の一太刀を、左の頬に受けたのである。 が、いったん血を見ると、市九郎の心は、たちまち変わっていた。 彼の分別のあった心は、闘牛の槍やり
を受けた牡牛おうし のようにすさんでしまった。 どうせ死ぬのだと思うと、そこに世間もなければ主従もなかった。 今までは、主人だと思っていた相手の男が、ただ自分の生命いのち
を、脅かそうとしている一個の動物 ── それも凶悪な動物としか、見えなかった。 彼は奮然として、攻撃に転じた。彼は 「おう」 とおめきながら、持っていた燭台を、相手の面上を目がけて投げ打った。 市九郎が防禦ぼうぎょ
のための防禦をしているのを見て、気を許してかかっていた、主人の三郎兵衛は、不意に投げつけられた燭台を受けかねて、その蝋受ろうう
けの一角が、したたかに彼の右眼を打った。市九郎は、相手のたじろぐすきに、脇差わきざし
を抜くより早く飛びかかった。 「おのれ、手向かいするか!」 と、三郎兵衛は激怒した。市九郎は、無言で付け入った。主人の三尺に近い太刀と、市九郎の短い脇差とが、二、三度はげしく打ち合うた。 主人が必死になって、十数合太刀を合わす間に、主人の太刀先が、二、三度低い天井てんじょう
をかすって、しばしば太刀を操る自由を失おうとした。市九郎はそこ付け入った。 主人は、その不利に気がつくと自由な戸外へ出ようとして、二、三歩あとずさりして縁えん
の外へ出た。そのすきに市九郎が、なおも付け入ろうとするのを、主人は 「えい」 といらだって切り下ろした。が、いらだったあまりのその太刀は、縁側と、座敷との間に垂れ下がっている鴨居かもい
に、不覚にも二、三寸切り込まれた。 「しまった」 と、三郎兵衛が、太刀を引こうとするすきに、市九郎は踏み込んで、主人の脇腹を思うさま横に薙な
いだのであった。 敵手が倒れてしまった瞬間に、市九郎はわれにかえった。いままで昂奮して朦朧もうろう
としていた意識が、ようやく落ち着くと、彼は、自分が主殺しの大罪を犯したことに、気がついて、後悔と、恐怖のために、そこへへたばってしまった。 |