〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-]』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(七)
 

2015/07/07 (火) 

宮 古 島 (十一)

この宮古島の五人のことについては、彼らのやった凄愴せいそう としか言いようのない往路十五時間の力漕もさることながら、それ以上にこの時代の日本の田園社会の人間がどういうものであったかを示す極端な例をそこに見ることができる。
彼らがその後、沈黙してしまったということである。なお彼らはその妻にも語らなかったということは、すでに触れた。出発について目的や行き先をその妻に告げなかったということは、彼らが島司から 「国家機密だから」 ということで電文原稿を入れた御用箱というおもおもしいものを預ったという緊張がそうさせたのかも知れない。が、その緊張も機密性も無用になってしまったはずの戦後もなお彼らが口外しなかったというのは、この時代の田園社会に住む人びとがほぼそうした精神であったと思われる。謙虚ということもあるであろう。謙虚であること以前に、人びとの行為というものは国家から表彰されることによって価値を生ずると思い込んでいる庶民が多かった時代であり、半面、表彰もされないのに自分で自分の行為に価値を見出して顕示するという庶民も田園ではまれであった。
要するにこの五人の事歴は、宮古島の久松あたりの漁村でうずもれてしまっていた。
当時、電報を受取った大本営も、沖縄の八重山郵便局からも電報が来ていた、という程度の認識しかなく、その電報が打たれるに至るまでのいきさつなどは知らなかった。
当時、大本営の海軍参謀だった小笠原長生少佐も、晩年、退役中将として余生を送っている時期にこのことが話題になったが、ひとに質問されて、
「あさ、今となってはその電報が何時に入ったのか、どうも思い出せない。なにしろ信濃丸の第一報をはじめとして、ほうぼうからぞくぞくと電報が入っておりました。八重山からのはその中の一つだったのでしょう」
と、語っている。
この五人の話は大正期に入って、島袋源一郎というひとが簡単にまとめて記録したが、世間の目に触れなかった。
大正六年、稲垣国三郎という人が、広島高等師範学校付属小学校から沖縄県の首里しゅり にあった沖縄師範学校主事に転任して、着任早々、土地の人からこの話を聞き、学校の休暇を利用して宮古島へ行き、生き残りの人びとから話を聞いて、 「決死五勇士秘話」 という短い文章を教育関係の刊行物に書いた。
その文章が、昭和二年になって五十嵐いがらし つとむ 編の中等国語教科書にも転載された。それでもなお世間に知られることが薄かったが、この教科書を採用した女子学習院教授ばん しげ子という人が教科書内容の研究に熱心で、教科書に書かれた以外の事実を調べたいと思い、宮古島の平良町の中宗根勝米町長と何度も手紙を往復するうち、沖縄県知事もこの事を捨てておけなくなり、昭和五年、すでに孫もちの年齢になっていた五人の連中に金一封を贈った。彼らが宮古島から石垣島まで決死の航海をしてから二十五年の歳月が経っている。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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