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── 坂 の 上 の 雲 ──
(七)
 

2015/07/08 (水) 

宮 古 島 (十二)

この事実が、日本中に知られるようにいたるのは、昭和九年五月十八日付の 「大阪毎日新聞」 が大きく報道してからである。
「日本海海戦秘史」
というカット入り、 「 青年決死の冒険・遅かりし一時間」 という見出しになっている。遅かりし一時間とは信濃丸の第一報発信からかぞえて一時間遅かったという意味である。五人が四人になっているのは、すでに一人病没して四人が存命中の時期であったため、当時の人数も四人だったと思われたのかもしれない。かつて大正のはじめこの話を最初に取材した沖縄師範学校主事稲垣国三郎教諭が、この時期には大阪市立愛日あいじつ 小学校校長になっていた。記者はおそらく稲垣氏から取材したのであろう。
この記事が出て海軍省が驚き、すぐ表彰の手続きをとったため、宮古島で健在だった四人が初めて当時のことを語り始めたが、しかし四人の記憶でも時間関係があいまいになっていた。
垣花善はすでに六十になろうとしていた。彼は元来が陽気なたちだったので、島のあちこちから当時の話をしてくれと頼まれると出かけて行き、酒のご馳走になっては繰りかえし語った。
「そにため死ぬまで酒ばかり飲んで」
と、筆者がかつて宮古島へ行ったとき、当地の青年が、愉快そうに垣花善の言い伝えを語った。ふつう人間の一生で、他人に繰りかえし語るに値する体験というのは、一つあればいいほうであろう。筆者がそれを聞いたとき、余生はそれを語るために酒を飲んで暮したという花垣善の一生は彼の青春での一体験だけでっするどく結晶しきっているように思えて、はなはだ愉快におぼえた。
しかし、依然として時間関係が、明らかでない。
「遅かりし一時間」
という大阪毎日新聞の表現は、おそらく稲垣国三郎教諭の文章からとられたのであろうが、源武雄氏が綿密に時間関係をつきあわせたところによると、五人が石垣島に上陸したのは二十八日午前九時すぎということになり、これを信ずるとすればほぼ二十八時間遅れたことになる。となれば、すでに日本海における日露両海軍の主力決戦は終了しているわけで、源武雄氏の考証が正しいとすれば八重山郵便局がいくら僻地へきち の郵便局でもそういう季節遅れの 「敵艦見ゆ」 の電報は打たなかったであろう。あるいは、当時はラジオがなかったために前日の日本海海戦の結果が八重山郵便局ではまだ翌日になってもわからず、わからぬまま 「敵艦見ゆ」 の電報を打ったかも知れない。
いずれにせよ、垣花善以下五人の宮古島の青年が、これを報せるためにすすんでカヌーで大海へ漕ぎ出したことはたしかであり、帰路そのまま引っ返し、途中風浪になやまされてしばしば漂流寸前の事態になり、与那覇蒲の夫人カマドが留守宅で、
彼等かいた ァ、すぬ に行った」
と泣きつづけていたように、生還必ずしも期し難い挙であったこともたしかであり、さらに彼らがこの冒険をやることによって名声や金銭の見返りを受けることをまるで期待していなかったこともたしかであった。その後の社会から見ればおよそ風変わりな連中が、どうやらこの当時のこの国の普通の庶民であったらしい。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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