彼らは海上十五時間という長時間を漕ぎつづけた。 五人とも出発の時はすでにトビウオ漁から帰ったばかりで疲れ切っていたことを考えると、この十五時間の力漕は人間の体力の限度をとっくに越えたものであった。 この往
きの場合は海もおだやかで、ときどき帆でとらえられる風も吹いてきた。そいう風が来ればすかさず帆をあげ、風が逃げてしまえば、それぞれ櫂を空中で煽あお
って水に突っ込み、掻か きに掻いた。 話は前後するが、帰路は順風ではなかった。強い北風が吹きつづけ、海が荒れに荒れただけでなく、何キロか漕ぎ進んだと思えば、それ以上の距離を押し戻されたりした。 「主人の弟うとと
の松 (与那覇松) が泣き出して」 と、カマドは与那覇蒲から聞いた話をそにょうにした。松・
は櫂を捨て、船底にしゃがんでしまって、死ぬのはいやだ、と泣きはじめたのである。疲労と風浪のはげしさと、はるかな宮古島への距離を思うと、どう考えても生きて妻子に再開出来そうになかった。与那覇松には二人の子供がいた。 「子供まい
(も) 、二人生まり・・
ている。ほんとに、いま死すね
やならん。妻とじ や子供ら、どうなる」 と言いつづけた。松はついに舟が宮古島へ帰りつくまで櫂を手にとらず、船底にうずくまったきりだったが、他の四人は心優しい連中で、松を叱ろうとはせず、だまって松のぶんまで漕ぎつづけた。 この間、指揮者の垣花善は、 「神ぬ、守ぬも
り貰うー ば、大丈夫」 とのみ言いつづけて、一同をはげました。 話が、前後する。 彼らが往路海上十五時間を漕いで八重山群島の石垣島の東側にある伊原間いばるま
に着いたのは深夜だった。岸へ着けようとすると、舟が浅瀬に乗り上げた。 どうにもならぬ、陸路を駈けるばかりだ、と垣花善は決断し、垣花と与那覇蒲だけが上陸し、深夜の山道を駈けることにした。 石垣島はシャモジのようなかたちをしている。シャモジの柄え
が北方で、彼らはその柄のあたりに上陸したことになる。目的地の石垣 (いまの石垣市) はシャモジの頭の方にあり、道路距離は約三十キロであった。 夜通し陸路を走りつづけた二人が、島の首邑しゆゆう
の石垣にある八重山郵便局に飛び込み、宿直の局員をたたき起こしたのが朝四時だったという。彼らは宮古島の島司から渡された御用箱を所員に手渡した時は、立ってもおられず、しゃがみこんだ。 すぐさまこの八重山海底電信所かた、 「敵艦見ゆ」 という電信が、那覇の県庁と東京の大本営に向かって送られた。 この発信の時間に諸説があり、なにぶん垣花らは時計を持っていなかったし、それに自分の行為がのちに記録されるに足るものだと思わなかったため、あいまいになってしまった。昭和九年になってから世間が騒ぎ出したとき、八重山郵便局でも打電の記録をさがしたが、見当たらなかった。東郷艦隊の哨戒艦信濃丸が
「敵艦隊見ゆ」 を打電したよりやや遅れたことだけはたしかである。 |