この稿を書くについて、筆者は沖縄県宮古・西城中学校教頭松原清吉氏に問い合わせて、いろいろ教えてもらった。 ついでながら松原清吉氏は、五人の内の与那覇蒲および同松の甥御
さんにあたられる。 当時、与那覇蒲はすでに妻帯していて、数え三つの男児もあった。妻はカマドといった。カマドは数えて二十六歳だった。 カマドはこのときの関係者の中でもっとも長命し。数年前、八十六歳で死去したが、そのp在命中、松原清吉氏がカマドの談話を記録している。 時間については、彼女の記憶では二十六日・・・・
の午前九時ごろだったでしょうか、ということになっている。彼女が井戸から水を汲んで家へ帰ると、夫の使いが走って来て、 ── いますぐ遠い所へ出るから粟を持って来い。 と、伝言した。彼女は妙なことだと思った。夫は漁から帰ったばかりなのにどこへ出かけるのだろうと思ったが、ともかく粟をもって大泊という海岸へ行った。 浜では夫のほか四人がくり舟に乗って出漕しようとしていた。粟を渡してそれを見送ったが、事情もなにもわからなかった。 「どこへ行ったかもわからんで、バーヤ
(私は) 畑へ行った」 と、彼女は松原氏に言う。畑仕事をしたあと、昼ごろ家をめざして帰ろうとすると、 「あちらのユマタ
(巷・四辻・人の集まるところ) こちらのユマタで、人ががやがやしている。何事のうぐと
? と聞くと、“彼等かいた ア、軍艦ヌ所へ行った。彼等かいた
ア、死すぬ に行った。彼等かいた
ア、八重山やーま へ行った”
ということだった」 そのあと彼女は家へ飛んで帰ってわぁわぁ泣いてしまったらしい。 「その日も、次の日も、泣いてばかりいた。真まあんて
に、こども一人作ったばかりでと思い・・・・」 それほど悲嘆させられた彼女が、ちょっと信じられぬことだが二十九年後の昭和九年まで、夫たちがあのとき何をしに行ったかについて、夫からもその仲間からも教えられずにすごしたのである。五人の若い漁夫たちは、出発にあたって島司から、 「これは国家機密だから、たれにも口外しないように」 と念を押されたことをその後も忠実に守り、昭和九年、毎日新聞がこの事実を知って全国的に報道するまでその妻たちにも洩らさなかった。そのためこれだけの異様な事実が、宮古島だけでなく日本中に知られることがなかったのである。 異常さは、彼らの決死の力漕という記録的壮挙だけでなく、そのことを国家機密であるとしてたれにも話さなかったということにもあるであろう。すでに変化してしまった社会からふりかえればむしろそのほうがはるかに異常であるかのようである。日露戦争は日本人のこのような、つまり国家の重さに対する無邪気な随順心をもった時代に行われ、その随順心の上にのみ成立した戦争であったともいえる。 |