たまたま島司のもとに垣花善
という若い漁夫が顔を見せた。垣花善が何時ごろ島司のもとにやって来たのか、時間関係がよくわからない。 垣花善はこの当時、松原地区の部長 (地区の世話人)
をしていたほどだったから、島司との接触が頻繁であった。島司はこの垣花に事情のすべてを明かして八重山の石垣島まで行ってくれるか、と頼んだ。 花垣はおどろいて、漁夫としての経験では不可能に近いことだが、やらねば仕方ありますまい、といって承知した。花垣は元来義侠心に富んだ勇敢な人物として知られていたが、もし彼が百年前に生まれていれば何事もない平穏な庶民の生活を送ったであろう。日本中の庶民がそうであった。近代国家というとうほうもなく重いものが出現したため、農村漁村の青年が思いもよらぬ満州の戦野に連れてゆかれてロシア人と対峙たいじ
しているように、花垣善もまた、みずからすすんでのことであったが、石垣島まで命がけの航漕こうそう
をしなければならなかった。 彼は松原部落に住んでいた。家へ帰ると、弟の清と、いとこに当る与那覇よなは
蒲と同松の兄弟に同行を頼み、さらに久貝くかい
部落に住む友人の与那覇松 (松原の与那覇と同姓同名) をさそった。ついでなから松原部落と久貝部落は一つになり、いまは久松と称されている。宮古島の首邑しゅゆう
の平良にもっとも近い漁港で、与那覇湾にのぞんでいる。 「粟あわ
を出せ」 と垣花善はその夫人に言っただけで、何の目的でどこへ行くということはいっさい告げなかった。粟は食糧であった。それを袋に詰め、舟にほうりこんだ。 舟は、くり・・
舟である。 杉の大木の芯の部分をくりぬき、舟全体にクジラの油を塗りつけて水止めをした木舟で、沖縄ではサバニと呼ばれている。全長五メートルで、幅はもっとも幅びろいところで、一・八メートルしかない。 五人はこの舟を砂浜から押し出し、浪間へ走りこんだ勢いで櫂かい
をこぎはじめた。櫂は丸太をけずった程度の粗末なものである。 波を切って行くへさきに、久貝部落の与那覇松が前を向いて尻をおろし、櫂をこいだ。ゆいで垣花清とそのいとこの与那覇松、指揮者の花垣善という順ですわり、それぞれ櫂を海に突き入れては激しく漕いだ。舟のしり・・
には方向感覚のすぐれた与那覇蒲がカジトリとしてすわっていた。この一行は羅針盤らしんばん
さえ持っておらず、ただ与那覇蒲の方向探知のかん・・
にだけ頼って漕ぎ進んだ。 石垣島へのコースはふつうなら西側の東シナ海を離島づたいにくだってゆくということはすでに触れた。が、彼らは、途中離島がないために冒険的なコースとされている東側の太平洋側えおとった。その方が距離的には近かった。 |