〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-]』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(七)
 

2015/07/06 (月) 

宮 古 島 (七)

この時期、宮古島に無線設備がなかったということはすでに触れた。
また那覇から新聞が届くというよなこともなかったため、宮古島の情報環境は太古とさほど変わりはなかった。日露戦争が行われているということは知られていたが、本土の関心がバルチック艦隊の動向に集中しているということも知らなかった。まして同艦隊が宮古島付近を通過するかもしれないという可能性を推測する者もなく、推測しようにも基礎知識や判断に必要な情報に欠けていた。宮古島の時間は、神代のようなゆるやかさで流れていた。
そのゆるやかな時間意識の流れが、このとほうもない情報の上陸によって混乱した。
「どうすればよいのか」
と、島司はとまどった。報らさねばならないということはわかっていたが、どこへ報らせればいいのであろう。東京なのか、東京だとすれば東京のどういう機関のたれがこういう情報の係りであるのか、まったく雲をつかむようであった。
八重山やえやま 群島の石垣島に電信局がある」
ろいうことをられかが言った。これは救いであった。その電信を使えば那覇へでも東京へでもすぐさま通信できるだろう。ところがこの宮古島からその石垣島までどのようにして行くかである。
宮古島から石垣島まではふつう西側の離島づたいに行くが、距離は百七十キロほどである。
百七十キロといえば、横浜からボートを漕ぎ出すとして、三浦半島の突端をまわり、相模灘さがみなだ を西へつききって伊豆半島の突端を過ぎ、さらに駿河湾を西へ横切って相御前崎おまえざき をのぞむ地点までの距離である。
「たれか八重山の石垣島まで行ってくれる者はないか」
と、島司たちは小当りにあたった。なんのためにという目的は言わなかった。バルチック艦隊の発見というこの国家存亡の大情報は、島司のような小さな身分の役人にとっては荷が重すぎた。これを秘密にせねばあとから官がどれほど叱責してくるかわからない。しかしながら目的を言わずに人に頼めなかった。八重山の石垣島までの航海など、命がけである。目的もわからずに命がけの船出をするほど人間は酔狂にはできていなかった。
このころ、トビウオ漁がさか っていた、漁師のほとんどはこの漁に出はらっていた。トビオウ漁はグループごとにわかれて漁をし、そのグループごとの競走になっていた。いかに漁獲を多くし、いかに早く港へ帰って来るかが競争で、港へ帰って来ると浜には女房が出て待ちかまえている。舟から魚を揚げると、女房たちはそれをかついで十キロも十五キロもさきの部落まで売りに行くのである。そのため帰って来ることが早ければ早いほどいい値で売れた。いい値であるだけでなく比較的近い部落で売りさばけるという利点もあった。
こういう漁の盛りのなかで、
「たれか八重山の石垣島まで行ってくれる者はないか」
などという悠長ゆうちょう な島司の声に耳をかたむける者などなかった。このように島司は連絡者をさがすために半日以上時間を空費させざるを得なかった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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