余談ながら、この奥浜の那覇出港は二十四日で、二十五日にバルチック艦隊を見たというようにその後の巷説
ではなっていたが、郷土史家源武雄氏の研究で那覇出港が二十五日、艦隊発見が二十六日朝・・・・・
ということが明らかになった。もっとも全体の時間関係から見れば多少の註釈が要る。奥浜牛が目撃したのは艦隊の航進の時間的推移から見ておそらく二十二日であったであろう。彼が報告したのが二十六日朝ということであったのかもしれない。 源武雄氏は、この当時宮古島の島庁に産業主任として勤務していた大野楠生という人の日記を発見した。その日記の
「五月二十六日」 の項を見ると、 「本日、山原船、漲水港はりみずこう
(註・宮古島の港) に入港。該がい
船頭 (註・奥浜) の談によれば、宮古島・慶良間島けらがじま
との中間位に於おい て、当島へ向け航行の際、敵艦四十艘そう
余に行き会ひたる旨申出たり」 とある。 奥浜が、宮古島の漲水港に入港して島庁に報告したのは午前十時ごろである。 島庁では騒然となった。 この当時、島司は橋口軍六という人物であった。小野朔次郎さくじろう
という人が島司だったという説があるが、なにかの間違いらしい。 島庁に警察官も駐在していた。その警察官がひどく物固い人物で、 「おまえのその話は本当か。万一虚言などを申し立てるようではその罪は軽くないぞ。きっと覚悟して真実を申し立てよ」 などといったふうの、せっかくの注進者を罪人扱いにするような尋問の仕方をした。奥浜は純朴じゅんぼく
な性質だったから怒りもせず、 「首にかけて真実でございます」 と、申し立てた。 これが二十六日午前十時とすれば、東郷艦隊の哨戒艦信濃丸しなのまる
が発した有名な 「敵艦見ゆ」 という第一報の発信は翌二十七日の午前四時四十五分である。ほぼ二十時間、奥浜報告のほうが早かったわけだが、しかしこの当時宮古島には無線設備がなかった。 さらに警察官は速報よりも手続きの堅牢さを偏重した。彼の性格によるものではなく、それほど当時日本国家の
「官」 という存在は重く、官の末端につらなるこの警察官にとって那覇の上司の存在が日本列島の重量と同じほどに重かったのである。 警察官は地図を広げて奥浜に発見の地点を確かめさせ、筆をとって奥浜の口述を文章にして調書を作製し、それを奥浜に見せて、 「これにまちがいないな」 と念を押し、しかるのち、 「捺印なついん
せせよ」 と、命じた。奥浜は印鑑など持っていなかった。警察官は、それでは書類の形式が不備になると叱り、奥浜に印鑑を作ってくるように命じた。 奥浜は平良ひら
の町を走って印鑑を作ったが、出来上がったのが翌日であった。翌日、新調の印鑑をもって警察官のもとへ行き、調書に捺印して形式の完全なものにした。しかしながら書類が完成したときはバルチック艦隊はとっくに過ぎ去ってしまっていた。 かといってバルチック艦隊が日本の海域に近づいたとき、それを発見した最初の日本人が奥浜であったことにはかわりがなく、奥浜はひとりこれを誇りにし、その栄光がたとえ世間に知られることが少なかったにせよ、このときの印鑑を大切にし、大正末年に病没するとき、子供たちにこの印鑑を渡し、 「この印鑑は自分がかつて首を賭けて重大な役目をはたした名誉の記念である。末代まで大切にせよ」 と遺言した。この時代の庶民どういうものであったかが、この奥浜によっても想像できる。 |