話はかわる。 日本人として最初にバルチック艦隊の進航して来るの姿を見た人がいる。沖縄の粟国島
の出身で、奥浜牛という二十九歳の青年であった。 彼の故郷の粟国はまわり三里ほどの島で人口は五千ほどしかいない。村にとの多くは出稼ぎに出るため進取の気象に富んでいたが、奥浜もそうであった。 彼はこのころ那覇なは
に住み、山原船やんぱるぶね に雑貨を積んで宮古島みやこじま
へ売りに行く仕事をしていた。彼はまだ船主になるほどに裕福ではなく、船は宮城次郎という人から借りて船頭をつとめていた。少人数で操船して大海に乗り出すといおうは容易でない技術であったが、その点粟国島で少年期を送った彼は気まぐれな海をどのようにすかしたり騙だま
したりして小舟を目的地へ運ぶかということに馴な
れていた。 この日、那覇港から出る船に対しては、那覇警察署の水上派出所から注意書が出ていた。 一、露国艦隊は目下回航の由なれば、航海中軍艦らしきものを発見せば、
最寄もより の警察又は役場等へ届出とどけで
る事。 二、海上に箱形のものを発見せば、夫そ
れは水雷なれば危険につき接近せざる様、注意すること。 奥浜もこの注意書が出ていることは知っていたが、出帆を見合わせることはしなかった。彼の記憶は日付や時間については多少ぼんやりしている。彼の記憶によれば、彼が帆を張って那覇港をすべい出たのは五月二十五日であった。宮古島をめざした。宮古島までは南西三百キロ近くあった。 途中、曇天ではあったが山原船の帆走には絶好の風むきで、しかも風に力があり、このぶんでは予定より早く宮古島に着くのではないかと奥浜は思った。夜間はむろん航走をつづけた。 二十六日の朝は、霧の中で明けた。 奥浜は朝食をとる前にまず髪を櫛くし
でていねいにくしけずった。彼は身だしなみのいい青年だった。ついでながら本土では断髪令が出て三十年もたつが、奥浜はなお断髪せず、琉球風りゅうきゅうふう
に結髪していた。他の水夫かこ
もそうであった。このことが、このあと数分後におこった事態において彼らを救うのである。 前方の霧のかなたになにやら影を見たとき、彼はそれが宮古島の島影だと思った。ところが島がどんどん動いて来た事によって、船だと気づいた。らだの船でなく軍艦であった。旗も見えた。旭日旗ではなく、見たこともない旗であった。 (ロシアの軍艦だ) と思ったとき、艦影はどんどんふえてゆき、左右にも見え、どうやら大艦隊の中にまぎれこんでしまった自分を発見した。 奥浜の山原船を発見したのは、バルチック艦隊に先行している哨戒の巡洋艦の一隻だった。舷側に多数のロシア人の水兵や下士官、そして士官らしい男が身を乗り出して奥原に向かってどなった。 「中国人キタイスキー
── ?」 と、どなっているようであった。彼らが奥浜を日本人でないと見たのは結髪していることと、いま一つは山原船にひるがえっている旗によってであった。旗はムカデの模様がついていて、竜の模様を好む中国風の意匠に似ていたのである。 |