〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-]』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(七)
 

2015/07/01 (水) 

宮 古 島 (四)

五月二十五日は、バルチック艦隊にとって無事に暮れた。ただし、鎮海湾にいる東郷の司令部はこの夜焦燥の極に達し、
── まだバルチック艦隊の艦影をつかめないということは、彼らがすでにやはり太平洋方面に逸走してしまった証拠ではないだろうか。
と、思いつづけた。真之はこの夜、ほとんど眠れなかった。彼はすでに思慮をつくしきってしまっている以上、もはや神恃かみだの み以外にないと口走ったりしたが、しかし彼の言う 自身が、
── 敵は太平洋へまわったよ。
などと絶え間なく彼の大脳へ声をかけ、彼の不安をいっそう大きくさせつづけた。
一方、東郷の様子には変化はなかった。彼は敵が対馬から来る、それ以外の方法を敵はとらないということにおいて最初から不動であり、食欲も衰えなかったし、一定の時間になるとひっそり就寝し、よく眠った。 この二十五日彼は終日無言であった。夜は熟睡した。東郷は世界中の提督の中で、戦闘の経験という点ではもっとも充実した履歴書をもっていた。少年の身で薩英戦争に出て以来、戊辰ぼしん 戦争では二十そこそこながら薩摩藩の軍艦 「春日」 の砲術士官として幕府海軍と戦った。当時、東郷は阿波沖海戦 (幕府の 「開陽」 と 「春日」 が戦った近代日本史上最初の海戦) に参加し、さらに奥州宮古湾においては旧幕府軍艦 「回天」 と交戦し、函館および五稜郭ごりょうかく 攻撃では艦砲射撃をもって陸上の敵軍と戦った。日清戦争では 「浪速」 の艦長として従軍し、とくに豊島ほうとう 海戦の花形というべき役割をはたした。彼は維新早々、軍人よりも鉄道技師になることを希望していたといわれているが、しかしその半生は砲火と砲煙のなかでつくられたといってよく、しかもほんの一時期鎮守府司令長官をしていたことをのぞいてはつねに海上にあり、艦隊勤務者として終始したというめずらしいほどの経歴であった。そういう彼の半生の経験が、彼自身に対し、 「たるだけの準備を整えた以上、ばたばたしても仕方があるまい」 という玄人くろうと だけが持ち得る心境 ── 第二艦隊司令長官の上村彦之丞はそういう人柄を男性的信仰家という言葉で表していた ── に達していたのかもしれない。
一方、ロジェストウェンスキーはその東郷とは出来れば いたくなかった。遭うにしても、ごく短時間であることを希望した。
ロジェストウェンスキーが、
「対馬へ」
という運命的な針路を艦隊にとらしめたのは、二十五日午前九時、細雨のなかにおいてであった。艦隊は五ノットの低速で進み、ときに八ノットになることもあったが、すぐ信号によって五ノットにもどした。
二十五日午後五時三十分、旗艦スワロフのマストに信号旗があがった。
「明日夜明けより十二ノットの速力を出すべく準備をととのうべし」
という信号であった。明二十六日から日本の哨戒海域に入るからである。この二十五日夜はずっと五ノットという低速で艦隊は航進した。この低速は、ロジェストウェンスキーが彼の好む時間に東郷と遭いたいという時間調整のためのものであった。もっともほかに機関管理上の理由もある。ひとつは戦闘を前にして汽罐かま く罐部員の疲労をとっておきたかったこと、またいよいよ戦闘になる場合にそなえて石炭を節約しておくといったものであったが、戦闘を前にした司令長官としてこれらは重要な考慮要素になり得るかどうか。・・・・・

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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