〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-]』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(七)
 

2015/06/30 (火) 

宮 古 島 (二)

ロジェストウェンスキーは、なぜすべての汽船を分離し、戦闘部隊のみをひっさげて決戦場 にのぞまなかったのであろう。
しかも彼は上海行きの汽船団を送ったあと、艦隊の陣形を変更し、艦隊に残留させた汽船団については巡洋艦のすべてをあげてこれの護衛にあたらせたのである。これによって巡洋艦たちは、第一線の戦闘力であることから引き下がって、汽船という動く物資の護衛者になった。この処置について例の匿名幕僚の手記では、
「これによって、艦隊は六インチ砲三十二門、四・七インチ砲二十九門をみずから減ぜしめたことになる」
という表現法をとっている。たしかに海軍戦術の常識から見れば度はずれた処置であった。戦闘力を集中するということが戦術の鉄則であり、戦闘力の分散はもっとも忌まれることであったが、ロジェストウェンスキーはあえてこれをやった。
彼はロシアでもっともすぐれた海軍指揮官とされている以上、右の原則を知らないわけではなかった。しかし人間は ── 最高指揮官といえども ── 机の上の思想は論理的であろうとも、ぎりぎりの場にいたってなお理性を失わず論理に従ってみずからを動かすということは困難であるようだった。むしろ恐怖とか希望的な期待という情念で行動を決することが多いようであり、とくに極端な独裁家であるロジェストウェンスキーの場合はその傾向が強かった。独裁者は必ずしも強者ではなく、むしろ他人の意見の前に自己の空虚さを暴露することを怖れたり、あるいは極端に自己保存の本能のつよい精神体質の者に多い。ロジェストウェンスキーがこの五月二十五日の朝にとったこの奇妙な陣形は、彼の知性の表現というより彼の性格の露骨な表現であるといえた。
これについては、米国海軍の大佐で、この当時世界的な海軍戦術の研究家であり、秋山真之も滞米中にその家庭を訪問したことがあるA・T・マハンは、その著 「海軍戦略」 (一九〇九年に米国海軍大学校での講義草稿) において、 「ロジェストウェンスキーは海戦の前、“ この艦隊のうち二十隻でもウラジオストックに到着すれば日本軍の交通線は大いに脅威をうけるだろう ” と言った」
と言っている。ロジェストウェンスキー海軍の戦略用語でいう艦隊保存主義であった。「艦隊は保存されているかぎりその存在そのものが戦力であり、敵軍に対して重大な影響力になる」 ろいう意味のことを述べ、かつマハン自身は、
「艦隊の本務は攻撃にあり」
という反対の立場をとっている。
ところが、ロシア本国の海軍軍令部は艦隊のウラジオストックへの遁入を示唆しさ しておきながら、この艦隊がカムラン湾にいるとき、ロジェストウェンスキーをとまどわせる電報を打って寄越よこ しているのである。
「ウラジオストックは、設備不完全な軍港である。だから、艦隊は同港での補給を期待してはいけない。かつまたシベリア鉄道による補給も期待してはいけない」
ということであった。このためロジェストウェンスキーとしては、艦隊が背負えるかぎりの荷物を背負い込んで行かねばならないという主観的状況に追い込まれた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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