「五月二十五日、曇天、南風烈しかりき」 と、バルチック艦隊の匿名幕僚の手記にいう。たしかにこの日、風がはげしかった。 ただし西風であった。絹の幕が垂れたように細雨が海上に降りしきっていた。波濤のうねりが大きく、海の色が黄色くにごっていて、各艦の艦首で砕け散るしぶきが、そのまま霧になって吹きとんだ。 「午前九時をもって艦隊の航路を東北七十度すなわち朝鮮海峡の方向に転じたり」 と、手記はいう。見ようによってはこのまま日本列島の太平洋岸を通るとも思える針路であった。 この二十五日は艦隊にとって特筆すべき変化があった。朝八時、北緯三十一度、東経百二十三度十一分の地点において、ロジェストウェンスキー提督は六隻の運送船を分離したのである。
「上海 港へ行け」 と、提督は命じた。 この艦隊の士卒が、決戦を前にして十分な闘志をもっていたことは、この汽船を分離させたことが艦隊の連中を大いによろこばせたということでもあわかる。 汽船は艦隊の長途の航海のために欠かせないものであった。彼らは航海のための石炭、弾薬、機材、食糧などを積んで艦隊とともについてきた。しかし決戦が明後日
(ロジェストウェンスキーは対馬海峡通過を二十七日正午とみていた) にせまっている今、汽船を従えることは足手まといであった。 ところが、このロジェストウェンスキーの配慮は、日本側にとってほとんど運命を左右したともいうべき幸運をもたらした。日本側はバルチック艦隊の針路について頭を悩ませていたとき、二十六日、この汽船団が上海に入ったという上海発の電報を得て彼らが対馬海峡に来ることを確信するにいたるのである。 いずれにせよ、二十五日朝八時、ロジェストウェンスキーはその長途の航海を共にしてきた汽船と訣別けつべつ
した。訣別に当って、戦いを前にしているために音楽も奏せず、号砲も鳴らさなかった。ただ旗艦スワロフは、ロジェストウェンスキーの別れの言葉をつづった信号旗をかかげた。その方が見送る者にとっても見送られる者にとっても、より情感的であった。マストにかかげられた色旗は雨にぬれつつも、色彩の配合によって人間の言葉を表現した。 旗艦スワロフの艦橋には、ロジェストウェンスキー以下の士官たちが佇立ちょりつ
し、六隻の汽船が煙雨の中に消えてゆくまで見送った。 しかしながら、この感傷的風景はかならずしも戦術的に良好な風景ではなかった。のちロジェストウェンスキーがこの点で攻撃されたことがあったが、彼が分離した汽船は六隻だけであったということいである。 まだほかに汽船が残っていた。アナドイル、イルトイシ、コレアそれに工作艦カムチャッカなどであった。これらの汽船団は一路直行して対馬海峡を突破し、海戦を行う場合、足手まといになるばかりであった。彼らはそれ自身に戦闘力を持たない上に速力が遅かった。さらにはコレアのごときは魚雷を大量に積んでいた。これにもし砲弾が当れば海上に一大爆発がおこり、付近にいる見方の艦に損害をもたらす危険性が十分にあった。それでもなおロジェストウェンスキーは彼らを引き連れて決戦場に臨もうとした。理由はただひとつである。無事ウラジヲストック港に遁に
げ込めた場合、ただちにこれらの特務船が役に立つからであった。 |