〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-]』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(七)
 

2015/06/23 (火) 

艦 影 (十二)

さらに、この件 ── 敵の航路予測 ── についてふれてみたい。
「そのことは前線の東郷に任せてある。後方の大本営が東郷の考えをあれこれ掣肘せいちゅう することはよろしくない」
と言い切った海軍大臣山本権兵衛は、のちのちまで日本海軍の統率の論理を明快にしたものとして賞揚された。
が、それ以上に山本の明快さは、後年、
「敵の航路予測について自分に立派な考えがあってのように言ったわけではない。ただ原則を示しただけである」
と、語ったことであった。語った相手は、この当時の第二艦隊参謀でのち中将になった佐藤鉄太郎であった。佐藤がのちにこの時期の山本の態度について 「実に後世に伝ふべき価値あり」 という旨の文章を書いたが、当時なお存命していた山本が、佐藤がそういう著述をしつつあることを耳にし、
── すまんがその草稿を見せてくれんか。
と、自邸に招いた。
山本は原稿を一読して、
「自分はあのときそこまではっきりと判断をもって言ったわけではなかったのに、なにか立派な判断を持っていたかのように書かれているのは後世の人を誤るものだ。この点を書き改めてもらいたい」
と、言った。
以下は推察にすぎないが、山本は軍政担当者であるために作戦に容喙する立場ではないにせよ、彼個人としては敵が対馬コースをとらず太平洋まわりで津軽海峡を通過するのではないかとひそ かに思っていたかのようなふしもある。山本は明治期の人物としては日清戦争期の外相だった陸奥むつ 宗光むねみつ とならんで骨ぶとい構想力、ずばぬけて緻密ちみつ な分析力を持っていた。分析力が緻密であればあるほど思考が袋小路に入ったり枝葉にとらわれたりしやすいが、鎮海湾の現場にいる秋山真之の場合もそうであった。

彼らがとらわれているひとつに、距離の問題があった。
対馬海峡からウラジオストックまでは六百マイルある。一方、津軽海峡東口からウラジオストックまでは四百七十マイルであり、百マイル強も差がある。
「もし」
と、真之は何万遍考えたであろう。もし東郷艦隊がこのまま対馬海峡に居すわっていて 「敵が津軽海峡東口に出現した」 という無電を受けたとき、いくら走りに走っても百マイル強の差があるため、敵がウラジオストックに入る直前でこれをおさえることが出来ない、ということを、であった。真之は神経病患者のようにこれを考え、
── そにためには津軽海峡の西口で待つ方がいいかもしれない。
と、数学的思考にとらわれた。津軽海峡西口で待てば、たとえ敵が対馬コースをとってきてもウラジオストックの手前で敵をおさえることが出来るのである。ただし津軽海峡西口で待つ場合は、彼が立案した 「七段構えの戦法」 という壮大な構想は大くずれにくずれ、一合いちごう か二合の小ぜりあいをやって夜を迎えざるを得ないかも知れず、そうなれば敵を全滅させるという目的そのものを失ってしまう。真之は解答のない数式に取り組んでいるようであった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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