〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-]』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(七)
 

2015/06/21 (日) 

艦 影 (十一)

ロジェストウェンスキーが対馬コースをとるのか、それとも太平洋まわりの航路をとるのか、これをめぐっての日本側の推測の話題をつづける。
余談ながら、真之が海軍兵学校のころ試験のヤマを彼から教えてもらったりした仲の森山慶三郎中佐は、この時期、第二艦隊に属し、その第四戦隊 (司令官瓜生外吉うりゅうそときち 中将・旗艦浪速なにわ ) の参謀をつとめていた。
森山はがらっぱちといっていいほど、磊落らいらく な性格で、相手かまわず他人の欠点をずけずけ指摘したりする癖があったが、そのかわりに自分の欠点や失敗についても隠しだてすることがなかった。
彼は晩年、中将になってから当時を回顧して自分の不明を、以下のように正直な態度で述べている。
「われわれ参謀連の多数は」
と、森山は言う。
「対馬海峡に居すわっていてはいかんと強調したものだ。僕もその説だったが、松井健吉はそうではない」
松井は中佐で、第一艦隊第一戦隊 (司令官三須みす 宗太郎中将。旗艦日進にっしん ) の参謀であった。その松井はあくまでもバルチック艦隊は対馬コースをとるとし、会議ごとにはげしく主張した。
森山も応酬し、ついに賭けようということになった。勝った方がめしをおごるというのである。
結局は、松井の対馬コースが勝った。海戦が終わった時、浪速に乗っていた森山が、松井の日進に向かって、
「松井参謀ハ健在ナリヤ」
と、信号したところが戻って来た信号は、
「戦死セリ」
という返答であった。松井は弓の達人でこの待機中、日進の上甲板でしきりに弓の稽古をしていた。森山は、
「一番偉い参謀が戦死して、私達わからずやが生き残ったわけだ」
と語っているが、真之も、全艦隊からその頭脳を信頼されていながら、その任務の重さから来る圧迫感のために思案がつねに乱れ、森山の言う 「わからずら」 のひとりであったことは確かだった。
「秋山さんは敵は津軽海峡を通るとみていた」
と、のちに証言しているのは、のちの中将で当時第一艦隊第三戦隊 (司令官出羽でわ 重遠しげとう 中将・旗艦笠置) の参謀山路一善やまじかずよし 中佐だった。
この出羽中将の第三戦隊は、この時期より三ヶ月前にバルチック艦隊を捜索すべくはるか南方へ巡邏じゅんら していたことがあある。
これは 「南遣支隊」 と称せられた。その構成は、二十二ノットの快速をもつ笠置、千歳の二等巡洋艦のほか仮装巡洋艦亜米利加あめりか 丸、八幡丸やわたまる および特務船彦山丸ひこさんまる であった。三月四日馬公まこう 、同五日香港沖、さらに南海島付近をパトロールし、三月八日にはのちにバルチック艦隊が寄港するヴァん・フォン湾やカムラン湾に達し、十五日にはシンガポールにも寄港した。
「日本の大艦隊がシンガポール沖に出現した」
というデマが一時、ロジェストウェンスキーを悩ましたが、その煙の火種はこの南遣支隊のことであった。
この南遣支隊に参加した前記山路一善は、
「シンガポールあたりの航海はなにぶん暑くて大変で、とくに石炭積み込みの時はつくづく苦しいと思った。この時の体験から、バルチック艦隊の苦労を想像することが出来、とくに彼らが途中、石炭搭載という大変な作業を繰りかえしつつやって来るので、日本側で計算している予定・・ よりずっと遅れて彼らはやって来ると思うようになった。だから私は敵は断じて対馬海峡から来ると思っていた」
と、語っている。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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