自転車の乗った財部彪大佐が、高輪台町の山本権兵衛の大臣邸宅に入ったのは、この夜の八時ごろである。 山本は応接室で財部に要旨を聞くや、即座に、 「これは、ならん」 と、その電報を差し止めた。山本の思想は若いころから晩年にいたるまでそうであったが、職務の管掌外のことに口出しすることを異常なほどに嫌った。 「対露作戦のすべては東郷に任せてある。もしそれに対し後方から容喙するようなことがあっては戦
など出来るものではない」 と、 「将、外そと
ニアッテハ君命モ奉ゼザルアリ」 という古い言葉を持ち出して軍令部の容喙を禁じた。が、財部は抗弁した。 「我われ後方の方が、事態の切迫感がより薄いために区々たる眼前の現象にまどわされぬという利点を持っています。それに東京の方が情報も多うございます。あるいはまた津軽海に対しては連繋水雷
(多くの機雷を索でつないだもので、真之が考案し、開戦後、実用化されていた) を敷設してあるということは鎮海湾の連中は知りません。原則は変則で。いまは非常に場合です」 「非常の場合であればこそ原則をつらぬかねばならぬ。とこかく今夜はよせ。あす役所でもう一度話を聞く」 と財部を追いかえしてしまった。 この当時、戦時海相である山本権兵衛の次官は斉藤実まこと
であった。斉藤はこのとき現場に居合わさなかったが、翌朝このいきさつを聞き、山本権兵衛の人物を語る挿話そうわ
として生涯ひとに語りつづけた。 翌朝、海軍省の大臣室で、軍令部次長伊集院五郎と山下、財部の両人が、ほとんど山本に食ってかかるようにして談判した。 山本は、敵が対馬へ来ようが太平洋をまわろうが、どちらでもよかった。 「わしに説などはない。わしは東郷を信ずるのみである。東郷が、敵が対馬海峡に来ないと判断して鎮海湾を去るというなら、それはそれでよい。東郷の立場を支持する」 とまで言ったが、平素おとなしい伊集院がこのときばかりはゆずらず、
「敵は対馬に来る」 と力説してやまなかった。 「伊集院、君の勝手な話なんぞ戦争の役に立つはずがない。戦争は東郷らがするのだ。それに任せておくというのが君の立場だ」 さらに、山本は、 「伊集院、君がもしロシア側の司令長官ならどこから入って来るかね」 と、逆に質問してしまった。伊集院はテーブルに身を乗り出して山本の虎ひげ・・
に顔を近づけ、 「日本の連合艦隊司令長官がもし山本権兵衛大将なら、私は対馬海峡から入って行く」 と、言ったから、この強情さには山本権兵衛も苦笑し、 「わかった。そこまでいうなら、電報を打て。ただし電文をもっとやわらかくし、あくまでも幕僚から幕僚へものを言う体てい
にせよ」 と、許可した。 右の次第で、 「なお鎮海湾に待機しつづけることを得策とする」 という旨の電報が現地へ送られた。ところが、鎮海湾の三笠からこれと入れ違いに、さきの電文のくりかえしが東京へ打ちこまれてきた。電文は
「二十六日正午マデ当方面に敵影ヲ見ザレバ当隊ハ夕刻ヨリ北海方面ニ移動ス」 という。焦りが露骨に出ているものであった。 |