この間、話が錯綜
する。 「相当の時機まで敵艦を見ないときは艦隊は随時に移動する」 という電文は、鎮海湾を去り、北上し、北方での待ち伏せ態勢に切りかえる」 という意味を含んでいる。 むろん大本営の作戦班の山下源太郎たちはそのように解釈した。 もっとも事の真相は、秋山真之らの艦隊幕僚の側において多少相違していた。真之らがこの電文を東京へ打ったのは東郷の意思を通告するためのものではなく、彼ら艦隊幕僚が大本営幕僚である山下らとの間に意見交換をしたといういわば意見電報で、 ──
貴官たちはどう思うか。 という意味が込められていた。これが幕僚間の意見交換の電報であったことは、真之らが東郷の許可を得ていないことでもわかる。 ところが東京の山下らは
「通告」 と受取った。 「これは重大な事態だ」 と、山下は財部彪大佐を呼び、相談した。大本営は軍令部長伊東裕亨、同次長伊集院五郎以下すべてが、 「敵は対馬へやって来る」 という判断のもとに動揺はしていなかった。ただ十に一つ、津軽海峡へ来るかも知れないということを想定して機雷を敷設ふせつ
してある。もっとも機雷のことは鎮海湾の連合艦隊には報せていなかった。 「鎮海湾で待機しつづけるべしと」いおうことを命令するか助言するか、いずれかの処置をとるべきではないだろうか」 と、山下が財部に慎重な態度で相談したのは、後方である大本営が前線の出征部隊の行動にいちいち嘴くちばし
を容れてはならないということに、この当時の原則はなっていたのである。 ただしこの場合は事が事だけに、非常の容喙ようかい
をすべきであった。財部は山下の意見に賛成した。ただ容喙と受取られないよう、晩年の財部彪大将の表現によれば、 「意味のすこぶる立ち入った長文電報」 の案を二人で作成した。 二人はしぐこの案文を上司の伊集院次長に差し出して花押サイン
をもらい、そのあとすぐに退出した軍令部長の伊東祐亨をその高輪たかなわ
の自邸に訪ねるべく財部彪が自転車を漕いで走った。ときに日暮前で、参謀懸章をつけた海軍士官が血相を変えて自転車を走らせている姿を、通行人たちが奇異の目で見送った。 伊東祐亨も、賛同した。ただし、 「山本の同意を得ておく方がよい」 と、伊東は言った。山本権兵衛は軍政面を担当する海軍大臣で軍令面には関係がないはずだが、しかしこの時代の山本は軍令部の創設者であるだけでなく、事実上の海軍の作り手であっただけに一種特別な存在であった。
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