ここで、わずかながら混乱が起こる。 第二艦隊の先任参謀だった佐藤鉄太郎が、昭和五年発行の自著において、 「当時、連合艦隊幕僚の意見としては」 と、秋山真之の名を示さないまでも、そのように指摘しつつ、 「敵艦隊は、恐らく津軽海峡を通過するであらう。是非とも陸奥海峡へ邀
へて之これ を撃破せねばならぬといふので、其結論としては、鎮海を去って北上するといふに帰着しようとしたのあった」 と、書いている。多少事実の陰翳いんえい
がちがっているようだが、佐藤はこの当時から昭和五年に至るまでそのように信じていた。信じていたのも無理はなく、そういう印象を与えるほど真之は動揺していたのである。 佐藤だけではない。 東京の大本営自体が、 ──
連合艦隊は鎮海湾を去って日本海を北上するというのか。冗談ではない。 と、騒いだのである。 大本営海軍部というのは、海軍軍司令部の戦時呼称である。 当時軍令部長は大将伊東祐亨すけゆき
で、同次長は中将伊集院いじゅういん
五郎であり、いずれも薩摩人である。 その下に作戦班長として大佐山下源太郎がおり、以下、大佐財部彪、中佐中野直枝、同森越太郎、同高木七太郎、少佐小笠原長生、同田中耕太郎、同増田高瀬、同平賀徳太郎、同谷口尚真、大尉伊集院俊などがいた。 作戦班長山下源太郎大佐は、 「バルチック艦隊はかならず対馬海峡をめざしてやって来る」 という最初からの予測をくずしていなかった。 山下は大尉時代に
「武蔵」 の航海長をつとめ、とくに北海道警備に従事して日本の北方の海がいかない航海しにくいものであるかを身をもって知っていた。 山下はこの当時のことについて後年も多くを語らなかったため、海軍伝説のひとつとして、 ──
敵が対馬へやって来るという信念を持ち続けたのは山下大将 (山下はのち大将になった) であった。 という話が語り継がれたが、これについて山下の晩年、小島秀雄という海軍大学校甲種学生が当人に質問して、以下のような回答を得ている。 「相手の身になって考えればわかることだ」 と、山下はいう。 「自分がもしバルチック艦隊司令長尉官なら、あの霧の多い季節に、あの狭水道
(津軽もしくは宗谷海峡) を通るはずがない。それも訓練不十分で、しかも東洋の地象に暗い艦隊である。太平洋まわりが無理であることを当然考える。しかも海戦はいかに避けようとしても避くべからざる事態にあったから、おなじ通るなら近道でしかも航海上安全な対馬海峡ということになるはずだ」 ところが、五月二十四日、鎮海湾の連合艦隊司令部から、 「もし相当の時機まで敵艦を見ないときは艦隊は随時に移動する」 という意味のおどろくべき電報が入ったのである。
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