日本海軍の不安は頂点に達しようとしていた。 東郷はどうやら不動のままでいたようであった。この連合艦隊司令長官は、彼がすわり込んでいる鎮海湾から動く気持は少しも持たず、そのことが彼を世界海軍史上の名将にした。 しかし東郷の頭脳を担当していた中佐秋山真之は動揺した。彼の動揺については、すでに彼が対馬で鈴木貫太郎中佐と会ったくだりで触れたが、そのあたりが心臓
の担当者である東郷と頭脳の担当者である真之の相違であったであろう。 頭脳は心臓ハート
とは異なり、あらゆる可能性を思案しつづけねばならぬためにその思案の振幅運動が当然ながら大きくかつ激しい。この時期の真之は、東郷に比べればよほど小粒の存在であった。 この時期、日本海軍は真之のほかにもうひとつの頭脳を持っていた。第二艦隊司令長官上村彦之丞むらかみひこのじょうの先任参謀である佐藤鉄太郎中佐である。 佐藤は晩年、
「大日本海戦史談」 という戦史を中心にした海軍戦術論を書いているが、その中で、 「露国艦隊がカムラン湾を出発して以来、其その
消息杳よう として聞く所なく」 と、この時期のことについて触れている。以下、つづく。 「其後、幸にも台湾の南を通じて東航したりとの情報を得てより、以来不安の念は愈々いよいよ
深刻となり、其果たして太平洋に進出し、我本州を左方に見、津軽或あるい
は宗谷海峡に懸かか るか、或は又、直路対馬海峡を通過し、日本海を北走して浦塩ウラジオ
に至るか、全然不明の状態になって了しも
うたのである」 佐藤鉄太郎という頭脳担当者としては思考の振幅が大きく、彼はこれについて、 「右は実際決定し難き問題で、如何に思慮深き人と雖いえども
、確実に之を決定するが如きは、到底為し得ざるところである」 と、告白している。 佐藤はまだ第二艦隊の先任参謀であるために心理的重圧は、連合艦隊の先任参謀である真之よりも立場上やや軽くて済んだ。真之のこの時期の態度は泰然自若というような表現から遠く、不安のエーテルのなかで思考の振子が戦慄しつづけているというぐあいであった。 二十日すぎになったころ彼はついに、 「こうして鎮海湾にすわりつづけていては大事を逸してしまう。敵がどうにもわが哨戒網にひっかかって来ないとろをみると、おそらく太平洋へ迂回してしまったにちがいない。となれば航海に困難のある宗谷海峡は通るまい。津軽海峡を通るにちがいない。いそぎ錨を抜き、鎮海湾を出て津軽海峡の出口で待ち伏せねばならない」 と、半ば思案を決定するにいたったのである。彼の上司である参謀長加藤友三郎は、前任者の島村速雄はやお
から 「つねに秋山に考えぬかせてその結果を採用する方がよい」 と申し送られていたことでもあり、この意見をもって参謀長意見とした。
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