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バルチック艦隊がどこを通るか。 ということについては、バルチック艦隊そのものにもロジェストウェンスキーの個人的決断以外に定見がなかったように、日本側の首脳たちも敵の考え方に対して確乎
とした観測を持てず、持ちようもなかった。 「対馬海峡をくぐって日本海コースをとってくれてばもっともよい。しかし太平洋をまわって津軽海峡や宗谷そうや
海峡を経る公算も大である」 という無意味な論議が繰り返されていた。 もし日本側が艦隊をニセット持っておればその両方に手当てし得たであろう。ところが一セットしかない以上、敵が太平洋をまわるとすれば出来るだけ早期にその情報を得、南朝鮮の鎮海湾から急ぎ走り出て北方へまわらねばならず、対馬コースをとるとすれば鎮海湾での潜伏を続けていなければならない。この行動に少しでも食い違いができれば、日露戦争そのものが重大な危機に堕お
ちこむのである。 秋山真之も、 「敵はおそらく対馬海峡へやって来る」 という公算を八分どおりまで持っていたが、しかし、 ── 北海迂回ヲ絶無ト為スベカラズコト勿論もちろん
ニシテ・・・・・。 と、小笠原長生ながなり
(当時大本営幕僚) の後年の文章にもあるように、ここですべての持ち金を丁半ちょうはん
いずれか一方に賭けてしまうことがいいかどうかについては、彼はその張り手の立案者だけに決断しかねるものがあり、この思案のために人相が変わるほどに憔悴しょうすい
してしまった。 「秋山君はすこぶる迷っているようで、心配そうな顔をしていたので」 と、当時の真之の印象を、第四駆逐隊司令だった鈴木貫太郎中佐 (のち大将)
が語り残している。 真之が鎮海湾から汽船に乗って対馬の竹敷たけしき
要港部にやって来たときのことである。ついでながら鈴木の第四駆逐隊は、二等巡洋艦厳島いつくしま
(四二一〇トン) を旗艦とする第三艦隊とともに対馬を根拠地としていた。 夜、要港部でとまったとき、鈴木が訪ねて行って食事をした。鈴木は明治十七年の兵学校入校で、第十四期生であり、真之よりも三期先輩になる。 「どうにも気持が定まらない」 と、真之は盃の酒を飲むでもなくただふちを含みつつつぶやき、顔色は冴えず、鈴木の目にも挙動が奇妙であった。 (この男が。・・・・) と鈴木にとって以外だったのは、兵学校入校のころから変に生意気で、卒業後、海軍を一人で背負っているような自信家のこの後輩が、はじめて途方に暮れた表情を見せたことである。 「艦隊の艦長や司令のなかにも、敵が太平洋をまわって宗谷海峡または津軽海峡を通るのではないかという者が多く、鎮海湾などに待ち伏せしておらずに早々に函館へまわったほうがいいと申し出て来たりしている。その言い分にもわずかながら理がある」 |