じつを言うと、この日の前々日
(五月二十一日) 、隠岐島
付近にウラジオ艦隊の一部が現れ、ほどなく姿を消した、という情報が鎮海湾に入って、真之ら東郷の幕僚をなやましたのである。 ウラジオ艦隊は去年の八月十四日の蔚山沖うるさんおき
海戦でほぼ壊滅したはずであったが、港に遁入した軍艦があるいは修復が完了して、バルチック艦隊の東航を対馬付近まで出迎えるつもりであるかもしれなかった。 「もし隠岐対馬付近まで出て来ているとすれば、バルチック艦隊の到着は近いのではないか」 という観測もあった。もっとも日本側はこのウラジオの敵に対しては港外に機雷を撒ま
いたり、哨戒兵力を増強したりして、外洋に出さないようにする手は打ったが。・・・・ それは別としても、五月十四日に仏領安南の湾を出たバルチック艦隊が、いまだに日本近海に現れないということが、一部艦長たちの
「太平洋迂回説」 の有力な根拠になっていたのである。 「対馬を通るとすれば、もう現れてもよさそうなものだが、一向に姿を見せない」 と、真之は言った。焦燥は臆測を生んだ。すでにロジェストウェンスキーとその一行は東郷らの知らぬ間に太平洋迂回コースをたどりつつあるのではないか、ということであった。もしそうであるとすれば、維新以来三十余年にわたってのこの貧乏国が大海軍を築き上げた甲斐はまったくなくなってしまうのである。 「私はそうは思わないね」 と、鈴木は、西日本出身者の多いこの当時の海軍士官としてはめずらしく歯切れのいい関東弁で言った。鈴木は譜代大名の久世くぜ
家の家臣の子で、父の任地である泉州せんしゅう
(大阪府) 久世村で生まれたが、維新の瓦解で江戸に戻り、さらに群馬県前橋に移った。 「対馬コースならもうやって来るはずだのに来ない、と考えている人達は、バルチック艦隊が十ノットの速さでやって来ると思っているだろう」 と、鈴木は言う。 「なるほど十ノットの速力だという情報が先に入っているから無理もないが、しかしマダルカス島から走って来た速力はずっと見ていると、どうも七ノットらしい。たとえ目撃者が見たある時間内での速力が十ノットであったも、彼らは途中、洋上で艦隊を停めて石炭搭載などをしなければならない。だから平均七ノットをもって計算の基礎とするのが穏当ではないか」 「はあ?」 と、真之は意外なことを聞くように鈴木の顔をのぞきこみ、急いで酒を飲みこむと、暗算をはじめた。もし敵が平均七ノットでやって来るとすれば、焦る必要は少しもなかった。彼らが日本近海に現れるまでにあと五日を要するか、それとも六日を要する。 当方としては、それを待つだけでいい。 実際のところ、バルチック艦隊は八ノットないし九ノットで進んでいた。途中、三度にわたって長時間の戦闘訓練を行ったが、このとき艦隊速力は五ノットに落とした。 さらに鈴木の言うように洋上での石炭積みこみという厄介な作業をやったり、十八日夜などはネガトフが連れて来た装甲海防艦アプラクシンが機関を破損したために全艦隊が終夜徐航するなどのことがあったりしたため、均してみれば鈴木が観測したように七ノット強というところであったろう。
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