バルチック艦隊が五月十四日、仏領安南を離れたということは、艦隊にとって重大な機密であったが、パリの外務省では大ざっぱな推定ができる程度の情報は得ていた。 フランス外務省はすでに艦隊が出港する数日前、というより艦隊がその重い腰を上げようとしてもじもじしている段階から情報をキャッチしており、五月十二日にはデルカッセ外相の諜報秘書役のパレオログが、 「ご安心下さい、大臣閣下」 と、デルカッセに自分の推定を報告しているのである。 「艦隊は目下台湾に向かってそ針路をたどっていると推定します。これでもはやわれわれはこの厄介な問題にわずらわされなくてすむでしょう」 ──
数日後に、ロシア艦隊は日本艦隊と遭遇すると信ぜられるか。 というデルカッセの問いに対して、パレオログは、 「フランス海軍省に問い合わせてみましたが、少なくとも十日以内に会戦がおこるということはあり得ないようです」 これは正確だった。海戦は五月二十七日に起こった。── 「なおまた、われわれには東郷提督の意向なるものははっきりしておりません」 と、パレオログは答えた。 ここで驚嘆すべきことがある。 ロゼストウェンスキーが、各艦長に対しても密封命令をもって出港後に開封すべく命じていた機密
── 艦隊の針路 ── についても、パレオログの五月十六日付の日記によれば、フランス外務省は知っていたことになるのである。 「ロシア艦隊
は、いま朝鮮海峡を経てウラジオストックへ集合する目的で、東北に向かって進行している。・・・・」 と、明記している。 この針路の謎ほど日本側を悩ましたものはなかった。海軍省や連合艦隊司令部だけではなく、日本中がこの艦隊の方向がわからないため息を殺して案じているという恰好であり、話題が飛ぶようだが、皇后の夢枕に白装の武士が立ったという噂がさかんに巷間こうかん
で取り沙汰されたというのもこの時期であった。名を坂本竜馬りょうま
と名乗った。彼は幕末の志士で長崎で私設海軍をつくって日本の海運と海軍の源流のひとつをなしたが、この夢枕の中で彼はこのたびのバルチック艦隊の東航の件についてはご心配なさることはないという旨のことを告げたという。日本中がこのことで神経病患者のようになっていたという無数の事例のひとつであった。 日本は、情報が遅れた。 五月十四日にバルチック艦隊がヴァン・フォン湾を抜錨ばつびょう
して極東に向かったということを、鎮海湾の東郷平八郎が知ったのは、十八日であった。 すぐさま活発な哨戒活動が開始された。 この哨戒計画はかねてより秋山真之が立案し、加藤友三郎参謀長を経て東郷の了承を得ていたもので、日本海軍が生み出した独創の栄誉をになうものであろう。朝鮮の済州島と佐世保に線をひき、それを一辺として大きな正方形をつくる。その正方形を碁盤の目のように小さく区画し、数十区に分け、その目のひとつひとつに哨戒用の艦船を配置し、運動させるのである。哨戒には非決戦用の艦船が動員された。その数は七十三隻というおびただしさであった。
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