ヴァン・フォン湾は、カムラン湾のやや北方にある荒磯である。 バルチック艦隊が、神と皇帝の意思を持って日本を懲
らしめるべくこの湾を出たのは、五月十四日の朝である。 このアジアの海域に出現した史上最大の艦隊アルマダ
の規模は、ネボガトフ艦隊と合流したために総数五十隻、排水量は合計して十六万二百余トンという巨大な数字にふくれあがっていた。 海戦において勝敗を決する戦艦は、日本側が三笠以下四隻しか持っていないのに対し、この艦隊は八隻そろえていた。しかもこの艦隊の主力をなす四隻の戦艦
(スワロフ、アレクサンドル三世、ボロジノ、アリョール) は姉妹艦思想から生まれた新鋭艦で、三笠級よりも新しく、艦の若さをもって強弱をはかる考え方からいえば日本側の三笠、敷島、朝日、富士よりも十分優位に立っていた。 あらたに合流したネボガトフ少将の艦隊はなるほど老朽艦であり、ロジェストウェンスキーは当初計算外においていたが、それでもなおその大口径砲群は海戦の水域において浮かぶ砲台としての役目を果たすべく、事実この威力を冷静に計算した幕僚も多かった。戦後、匿名とくめい
で感想を発表した人物は、以下のように書いている。 「ネガトフ艦隊の来援が全艦隊を喜ばせたのは、その大口径十七門の大砲が大いに艦隊の将来に希望を強からしめたためである。戦場にあっては日本艦隊はその優速を利用するであろう。さらに彼らはロシア艦隊との間に大きな距離を置くに違いない。この大きな距離での射撃戦においてネガトフ艦隊の砲力は十分意義あるものになるであろう」 ロジェストウェンスキーも、ネガトフ艦隊を見るまではそれを邪魔者あつかいしていたが、この艦隊が合流し、彼の数字上の戦力が日本艦隊を大きく凌駕りょうが
したときから気分を変えてしまった。元来、ロシア人は暗算能力に欠けているわりには数量の大きいことを好み、物事の価値を数量的に決めたがる通癖を持っていた。 彼はこの喜びをあらわすために全艦隊に対し、難解な信号を掲げている。 「神はあれわれの精神を強化したまい、かつてなきこの大遠征を克服するための力を藉し給うた。神はわれわれをして皇帝の希望を果たさしめ、さらには祖国の恥辱を血をもって洗い清めるための力を与え給うた」 「われわれの提督は坊主かね」 と、口のわるい水兵が、陰口かげぐち
をたたいた。 いずれにせよこの大艦隊は、五月十四日最後の碇泊地を出発し、軸艫じくろ
千里、戦場への航海についたのである。 |