この間
、事柄が前後している。 時間的な筋道を整理すれば、ミシチェンコ機動軍の南下運動は、来るべき黒溝台激戦の前である。前ぶれというべき作戦であった。 日本軍の永沼挺進隊などは、ミシチェンコとほぼ同時期にロシア軍の後方に向かって運動を始めたが、彼らはミシチェンコが八日で機動を切り上げたのに対し、六十日ばかり活動したため、その間に発生した黒溝台の激戦は知らなかった。だから、彼らの機動は、黒溝台の戦いとは全く関係がない。 それにひきかえ、ミシチェンコ軍は、黒溝台作戦に参加し、むしろその主役ともいうべき働きをした。 話を、その時点へもどす。というのは、ミシチェンコ中将が機動作戦から帰還した時期に、である。同中将みずから奉天のクロパトキンの総司令部に行き、威力偵察の結果を報告したのは、一月十六日であった。 「日本軍は、おそるるに足りません」 とミシチェンコは、地図をいちいち指し示しながら、説明した。 「日本軍は、よほど兵力が不足しているように思えます」 ミシチェンコの言うところでは、日本軍は、東西わたって広大な陣地を展開しているかのように見えるが、厚薄のむらがありすぎる、というのである。 事実であった。 ニシチェンコは、じつに正確な日本軍陣地の状況を述べた。 まず中央部が厚い。 中央部に南北の奉天街道が走っているが、その左右がとくに厚い。つまり、奥軍
(第二軍) と野津軍 (第四軍) の接点付近である。 次いで厚いのは、東部の山岳地帯である。ここは黒木軍
(第一軍) が布陣している。 「紙のように薄いのは、日本軍陣地の最左翼です。つまりこの地図で申しあげると」 と、ミシチェンコは、渾河と渾河の間に広がっている広闊こうかつ
な平野を指さし、 「ここです」 と、言った。その最左翼の広闊な平野を守っている部隊こそ秋山好古の支隊であった。 ニシチェンコの表現によると、 「これだけの広い平野に、僅少の歩兵を支援部隊とする騎兵あるのみ」 ということになる。好古が、幔幕まんまく
を張るようにして騎幕を張っているありさまを指す。 「騎兵を防御用に使っているのです」 騎兵指揮官であるミシチェンコ中将から見れば、騎兵を守備用に使っている日本軍の総司令部の考えは謎でsる。騎兵とは本来、最高司令官がその手もとに握り、戦局の推移を見、戦機をとらえ、もっとも好時機に敵の意外とする方面にそれを大量投入するためのものであり、騎兵が銃を構えて一定の陣地にまるで百姓が田畑を守るようにして定着しているというのは、騎兵の機動力を重視するロシア人にとって理解し難いものであった。 「おそらく、日本軍の兵力不足によるものだと思います。この最左翼に、攻撃の重点を指向すべきだと思います」 クロパトキンとその幕僚は、検討の蹴った、ミシチェンコの報告を基礎にし、その意見どおり、日本軍左翼の秋山支隊に巨大な兵力を叩き込むことに決定した。 |