〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-\』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/06/10 (水) 

黒 溝 台 (二十二)

永沼らの挺進隊は、各隊を合計しても四百騎足らずであったが、その戦略的効果は小さくなかった。まずクロパトキンの心理に鋭い疼痛とうつう をあたえたことは最大の収穫であろう。彼らの各地での活動が、
「日本騎兵一万、馬隊二万が後方に侵入」
という情報になって、クロパトキンのその後の作戦計画に拘束を与えたことは、すでに述べた。
この情報に怯えたがためにクロパトキンは、ミシチェンコ中将の機動軍がロシア軍の中で最強であるにもかかわらず、これを積極的な打撃用に使わず、はるか後方の第二松花江付近へやり、後方警戒に任ぜしめたことも先に述べた。秋山好古にすれば、四百騎足らずの長距離機動部隊を出すことによって、一万騎のコサック騎兵を北方に釘付けし、そのため奉天会戦においては彼らからの強圧をまぬかれることが出来た。奉天会戦の時、もしクロパトキンがある戦機をつかんで、ニシチェンコの一万騎を日本軍の後方に迂回うかい /させれば、日本軍の戦いはさらに悽惨なものになっていたに違いない。
好古は、
「自分はそこまで効果があるとは思わなかった。ただクロパトキン将軍は過敏な神経の人だったから、ミシチェンコという英傑の使い方を誤ったというふしがあるかもしれない」
と、戦後、語っている。
さらに彼らの活動が予期しない効果を生んだのは、講和交渉の時であった。
永沼挺進隊は、日本軍の戦線よりはるか北方に運動したのだが、新開河の鉄橋を破壊するとき、田村馬造中尉と望月康二上等兵がロシア軍の監視家屋に突撃し戦死した。この時の戦闘はロシア側が次々に兵力を増加してきたため、永沼らはついに二人の死体を遺棄して去ったのだが、あとでロシア側はこの二人の勇敢さに感心して鄭重に葬り、墓碑を建てた。墓碑の高は一丈ニ尺あった。
「墓碑を高くせよ」
というのは、ミシチェンコの命令だったらしい。
ついでながら、この当時の戦争法規では、戦勝国が割譲を受ける土地や交通線は、通常その軍が占領した地域となっている 。後のことながら、日本軍が奉天会戦後の進出線はわずか四平街付近の昌図の線までであった。ロシア側は昌図以南ということを主張したのだが、この事実がわかって、さらにそれより北の長春以南の鉄道が譲渡される結果になった。その証拠として、ロシア軍が建てた田村馬造らの墓碑があげられたりすら。
これについて、ロシア側の陸軍省のなかで、
「ミシチェンコは日本の士官と兵卒の墓を建てたが、彼の騎士道趣味のためにロシアは鉄道を失った」
という者もあったが、ミシチェンコの偉大さはそこにあり鉄道など問題ではない、と弁護する者もあった。この戦争法規といい、ミシチェンコの建碑といい、ミシチェンコの弁護者のことばといい、この時代までの戦争には、観じきってしまえば愛嬌のようなものがある。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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