〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-\』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/06/09 (火) 

黒 溝 台 (二十一)

敵に対する正面攻撃を担当した浅野中隊六十騎の戦闘は惨烈であった。
中隊長浅野力太郎は、部落の前の濠にぶつかっていったん停止したが、やがて跳躍可能の場所をみつけ、向こう側へ跳び越えた。
六十騎が次々に跳び越えたが、前方にさらに部落を囲む土壁がある。
浅野は土壁に沿って進み、やっと崩れをみつけ、飛越して向こう側に馬の前脚をつけたとき、馬が前へのめった。
浅野はそれを引き起こそうとしている時、コサック兵が長槍をかざして襲いかかってきたのである。
この部落内に、レニツキー大尉の率いる二百騎がいた。彼らはさきに砲と六十騎の掩護騎兵を退却させたが、なおつぎの行動に移るまでの間、部落内に結集していたのである。
そこへ浅野大尉が飛び込んで来て、前脚をのめらせた。それを引き起こそうとしている同大尉の右胸部を、コサックの長槍がつらぬいた。この時浅野をコサック十騎が包み込み、さらに長槍を振り上げようとした時、浅野は落馬した。彼は身を起こし、軍刀をもって闘おうとしたが、右手に力がなく、やむなく腰の拳銃をぬき、一発放って敵の馬を倒した。さらにもう一弾を発射したとき、月を射った ── とロシア側記録にある。仰向け様に空を射ったのを最後に、浅野大尉の息が絶えたのであろう。
彼の部下は土塁の崩れから一騎ずつ部落内に飛ぶ込んで来たが、コサックはそれを一騎ずつ包囲した。狭い路上で敵味方の人馬がひしめき、長槍、日本刀、サーベルがきらめき、小銃や拳銃が鳴り、たがいが互いの血で服を濡らし、その血もすぐ凍った。
この浅野中隊と同行していたのが、永沼中佐の参謀格である宮内英熊大尉であった。
彼は日露戦会戦のときは陸軍大学校の学生であったが、中国語に堪能なところから開戦後、北京に派遣され、対支諜報に従事した。
その後、総司令部付になり、次いで永沼挺進隊が派遣されるにあたって、満州の地理に明るいということから永沼の幕僚になった。
あまりの混戦で、宮内は浅野の死を知らなかったが、浅野の姿が見えないところから、自分が指揮をとろうとした。
彼は土塁上にあがり、全員に退却を命じた。退却しなければ、わずか六十騎の日本騎兵は、二百騎のコサックの槍のために全滅してしまうであろう。
が、コサックの側の損害ははるかに大きく、このため命令を待たずして三々五々退却しはじめ、部落内に残っている者は五十騎程度にすぎなかった。
宮内は兵を掌握し、徒歩にさせ、手馬を曳きつつ射撃戦をさせた。このためレニツキー大尉以下最後まで残っていた五十騎も同大尉の命令で退却しはじめた。その退却を日本騎兵は徒歩戦をもって執拗に追いすがったため、ついにレニツキー支隊は大潰乱し、潰走した。
翌朝、兵をまとめた時、戦死は浅野大尉一人で、負傷は五十九人であり、ほとんどが槍傷であったことを見ると、その格闘のすさまじさがわかる。小数をもって大兵を潰走させたことからいえば、圧倒的な勝利といえるであろう。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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