永沼秀文は、 (日没後に戦闘を始めよう) とした。劣勢をもって優勢な敵を破るには夜間の戦闘以外にない。まして敵は砲を持っている。砲は夜間の照準が困難であった。 この日、月齢は十一である。すでに夕刻から東天にかかっているから、夜間行動の助になる上に、地上はこの一望の白銀世界であり、行動に不自由はない。 永沼は、偵察によって敵の所在はほぼつかんでいただけでなく、敵は不必要なほど広正面に散開していた。コサックは密集している場合は恐ろしいが、散開している場合は力が大いに低下する。おそらく小部隊ごとの下級指揮者の指揮能力が日本騎兵にくらべて非常に低いこともその理由のひとつに数えられるであろう。 永沼はまず、主力を率い、敵の退路を遮断すべく急行し、張家窪子
という部落の北方二キロの地点で、敵支隊の全容を見た。 永沼はすぐさま徒歩戦に移り、躍進しつつさかんに射撃したが、敵は馬上応射しつつも次第に遠ざかった。このため、永沼はふたたび全員に乗馬を命じ、射程内まで接近すべく前進した。 この時の行進序列は、先ず沼田濱之助少尉の指揮する六騎を尖兵として先に進ませ、あとは張家窪子の部落に接近するや、部落そのものが火を噴いたようにして敵は銃砲火をあびせてきた。 永沼は、まるで演習の指導をしているように沈着であった。 先ず浅野力太郎大尉の中隊を一列横隊に展開させ、部落正面に向かい銃撃させた。 永沼自身は中屋重業大尉の中隊を直接率い、縦隊にさせ、敵の砲兵陣地の側面を騎走して退路を遮断しようとした。日本軍の常套じょうとう
戦法である包囲のかたちを長沼はととのえようとした。 「トキニ午後八時頃ニシテ、寒月高ク中天ニカカレリ」 と、永沼自身の報告にある。 正面からの突撃をすべき浅野中隊は、銃火をくぐり、馬をあおって部落に接近すると、意外にも濠ほり
があった。部落の自衛用の濠であり、幅は広く、とうてい馬で跳び越せない。 「濠」 と、先頭が声を上げて停止したとき、敵は退却をはじめた。二門の砲を馬につなぎ、動き始めた。 後方を遮断しようとした永沼・中屋の隊の前も、濠がはばんだ。濠は長々とつづき、おそらく数キロもあるかと思われた。 ロシア側の砲兵とその掩護えんご
騎兵六十騎はこの堀に沿って、退却し始めた。永沼・中屋らも、六十騎をもってこの濠に沿い、敵と並進した。敵味方双方、必死で騎走し、このためロシア側の砲は砲身が躍るようであった。 このようにして二キロ並進し、たまたま堀の幅が狭くなったことを中屋大尉が発見し、剣を抜いて全員に跳躍を命じ、やがて白兵をもって格闘し、激闘のすえ敵を潰走させ、砲一門、輜重車しちょうしゃ
一輌を奪った。 |