永沼秀文は、冒険的作戦の実施者としてすぐれたところがあった。 「かならずしもヤオメンではあるまい」 と、最初の目標に固執することなく、軽快に方針を変更したことである。要は、鉄橋であればよい。ロシア軍後方の鉄橋を爆破するのが目的である以上、どの鉄橋でもいい。 ロシア軍が使用している鉄橋の中で最大のものは、ハルピン南方の第二松花江にかかっているそれだが、これは遠すぎる。遠すぎるという理由で、それに次ぐ大鉄橋であるヤオメンを選んだが、しかしそれがむずかしいとなれば、さらにその南にかかっている新開河を選べばよい。永沼秀文は、抜け目なく新開河方面のロシア軍の守備状況も調べさせていた。 ──
なんとか、やれそうです。 という報告を得て、彼は決心を変更し、 「新開河の鉄橋を爆破する」 という新目標に、一切を集中した。 新開河は、公主嶺の北方にある。 ついでながら、公主嶺は戦後、満州における日本軍の騎兵の屯営になり、次いで昭和十年代になって騎兵が機甲化してから、その南方の四平街とともに戦車のメッカになった土地である。 さらについでながら、永沼秀文の挺進隊とともに雪の曠野を転々として鉄橋爆破の機会を狙っていた長谷川茂吉少佐は、戦後この公主嶺の騎兵第十八連隊長として在任中、部下の計理官が不正をしたということを自責し、自刃して果てた。明治三十九年のことである。 話が、やや外
れるが、長谷川茂吉はその最期が示すようにきわめて廉直れんちょく
な軍人であった。ただこの時期、百七十騎を率いて潜行移動していたとき、彼は不運であった。 彼が目標とした鉄橋はいずれもミシチェンコ麾下の優秀な部隊が警備していた。長谷川は長春北方の張家湾
(ヤオメンの南方) の鉄橋を襲おうとして成功せず、永沼よりもさらに北進して社里店の敵の兵站倉庫を爆破し、ふたたび移動して鉄橋へ戻ったが、優秀なコサック騎兵に追跡され、しれをくらますことが出来ず移動をかさねるうちに人馬の疲労がはなはだしくなった。さらには、同行していた馬隊が、長谷川の窮屈すぎる統制に服さなくなり、サボタージュをはじめたため、ついに帰還せざるを得なくなった。その帰還途中、長谷川は余力をふりしぼって四平街停車場の北方に肉薄し、鉄橋爆破を狙ったが、敵の襲撃をうけて果たせず、そのまま帰還した。 長谷川らは戦後、殊勲甲、とくに功三級金鵄勲章きんしくんしょう
をうけたが、 「自分は甚だ苦労したが、しかし功は少なくこの勲章を受けるに値しない」 とつねに言い、戦後みずから慎むことはなはだしく、ついに自刃するに至った。明治的軍人の一典型というべきであろう。 その点、永沼は、状況を見つつ行動を決定してゆく姿勢が、柔軟であった。 彼はついに、新開河の鉄橋を爆破してしまったのである。二月十二日午前二時であった。その間、鉄橋守備の敵騎兵と戦ったが、苦難はむしろ爆破後に大きくなた。永沼らは後退したが、ミシチェンコは、 「日本騎兵をさがせ、見つけ次第、殲滅せんめつ
せよ」 という命令を、その隷下の各騎兵部隊に下したのである。 |