〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-\』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/06/03 (水) 

黒 溝 台 (十七)

永沼挺進隊の北上は、一ヶ月かかった。山河は凍りつき、一日騎走しても人影を見ない日もあった。
この間、永沼は土民や土地の官憲を買収して行動を容易にしたり、適性馬隊の頭目をとらえたり、出来るだけ企図を秘匿ひとく することにつとめ、ついに二月九日、
「あと一日行程でヤオメンに達する」
という地点までたどりつき、拉々屯ららとん という、雪にとざされた小部落に宿営した時、平素感情を顔に出すことのない永沼も、まぶたを赤くして、
「ついに敵の前線よりも六百キロの奥へ入った。あす戦死しても本望である」
と、言ったが、この用心深い冒険家は、なおも警戒と情報収集をおこたらず、ヤオメンの大鉄橋付近の敵情を調べているうち意外な事実がつぎつぎに入ってきた。
すでに、クロパトキンの情報網に、永沼らの行動が入っていたのである。
ただし、
「日本軍騎兵一万が北行中」
という、誇大なものであった。なにしろ好古が出した挺進隊は永沼のそれが先発隊になっているが、後発した長谷川挺進隊が北行しており、さらに小規模な隊ながら山内・建川という二つの長距離斥候が出没しており、そららが点になり、線になり、面になって出没するうち 「一万騎」 というぼう大な印象になってクロパトキンの耳に入ったのであろう。
ついでながら永沼、長谷川、山内、建川の諸隊の動きは、この同時期にヨーロッパまで聞こえ、ペテルブルグの陸軍省をおどろかせ、
「それに対する手を打っているか」
と、逆に奉天のクロパトキンのもとにうるさく言って来るほどになっていた。ペテルブルグに聞こえた情報では、
「日本軍騎兵一万、馬隊二万が、ロシア軍の後方に進入した」
というものであった。敵情を誇大に見るというのはロシア軍の通弊であり、逆に、過小に見るというのは日本軍の通弊であった。
ともあれ、クロパトキンはこれに対して過大な手を打ったことが彼の奉天会戦の敗因につながるものになった。なぜなら彼は、先に営口へ南下したミシチェンコ中将の大軍をのちいそぎ北上させ、沙河の戦線を去らせて遠く北方の松花江付近に配置したのである。ミシチェンコの兵力はこの時一万から三万に増強されていた。このため、のちの奉天会戦では、ロシア軍における最強部隊であるコサック軍は、日本軍のいない北方にただよ っているだけのかたちになった。
この挺進隊は、戦略的にはそれほどの効果をあげたが、実働中のこの時期、永沼は、自分たちの行動がペテルブルグにまで知られているとは気づかない。
ただ、ミシチェンコが舞い戻って北方にいることにおどろいた。そのことは情報収集の結果わかった。
目指すヤオメンの大鉄橋付近は、まわり数キロにわたってコサック騎兵を主力として歩兵と砲兵が重厚な陣地を築き、それを守っていることを永沼は知ったのである。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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