永沼挺進隊、点描。 彼らの最終目標は。遠くヤオメンという地点まで行き、ロシア軍の補給動脈である大鉄橋を破壊するにあった。 この計画の当初、児玉源太郎は、 「そういうことが出来るのか」 と、疑わしいというより、信じられない顔をしたほどであった。ロシア軍の前線は、奉天の南方に展開しているが、その奥、といってもはるか奥で、その前線から六百キロも北方なのである。ざっと東京から神戸までの距離に相当するであろう。 彼らは、黒溝台南方の蘇麻堡から行動を発起し、西へ大まがりしながら北条した。 西へまわるにあたってすぐに渾河
は渉わた らず、渾河の左岸をいったん南へくだいつつ、小北河という地点で、氷結した渾河を渉り、その右岸に出た。 「その右岸」 というのが、重大であった。こもとき、まるで符合するようにしてミシチェンコ大騎兵団の南下がはじまっており、それが偶然にもおなじ渾河右岸を南下しつつあったのである。 永沼は渾河を渉ってから、斥候の報告でそれを知った。 ──
まるで町そのものが大移動しているような景観であった。 というから、その軍容の大きさが想像できるであろう。 (見つからぬように) と、永沼は祈るような気持で西へ騎走し、ついにミシチェンコとすれちがいつつ北へ走った。彼は大崗子だいこうし
を経て、さらに北上した。 この間、敵に見つからぬよう、昼間は行動せず、民家を借り、馬も屋内に入れ、宿営した。夜間、騎行した。 この永沼挺進隊には、 「馬隊」 と、日本軍から呼ばれている一団が随行している。いわば馬賊であった。 馬賊というのは満州の治安事情の中から生まれた特殊なものである。この地帯は、古来、近代的な意味での国家が成立したことがないため、村々は盗賊団から自衛する必要があり、馬賊のもともとのかたちは村落自衛団であったが、その武力がしだいに独立しはじめ、無頼ぶらい
の徒などを吸収するようになり、やがてそれが他村を襲って匪賊ひぞく
をはたらくようになった。 日露が開戦するや、双方ともこの馬賊を味方に入れ、操縦して諜報や謀略に使った。 日本の司令部の馬隊操縦の総指揮官は青木宣純大佐であり、その下に中国通の士官が多数、操縦の実務についており、すべてシナ服を着て彼らとともに行動していた。 永沼挺進隊が出発するにあたり、諜報活動のために二百騎の馬隊をつれて行った。 永沼は最終目的を果たすまではと敵との接触を避けて進んだが、避けようがなくて戦闘せざるを得ない場合、 ──
戦闘は馬隊に任せる。 として、彼らを表面に立たせることによって行動を晦くら
まし、日本騎兵が北行しているということを気取られぬようにした。このため馬賊の連中は、 「日本騎兵はロシア軍をおそれている」 と、軽侮するようになったが、浅沼は意に介さなかった。 これが永沼の成功の基礎の一つになった。
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