好古は、 ──
ワレ、ツネニ無念トス。 と、その友人に送った手紙にも書いているように、敵味方の騎兵団が馬上争闘するという、いわゆる、 「騎兵戦」 というものを正面から演ずることが出来なかった。演ずれば負けるだけであろう。 そのことを痛いほどに知っている。 好古だけでなく、この極寒の曠野
に兵を展開させている日本軍の高級指揮官は、ほとんどが欧米に留学したか、でなくとも視察旅行の経験者であり、欧米の軍隊の優越性というものを痛いほどに知っていた。日露戦争の指導原理そのものが、児玉源太郎の開戦直前の言葉にあるように、 「勝敗はやっと五分々々である。それを戦略戦術に苦心してなんとか六分四分にもってゆきたい」 という、いわば勝つよりも負けないように持って行くということが、全軍の作戦思想をつらぬいている原則のようなものであった。 このために、用兵上の賭博性を出来るだけ少なくした。一軍を、ただ作戦上の痛快さを満足させるための、もしくはある種の政治目的のための賭場び投ずるという、その後の日本陸軍の精神病理的な性癖
(たとえばシベリア出兵、ノモハン事件、インパール作戦) といったふうな傾向は、まったくなかった。 「騎兵を育て上げた以上は、世界一のコサック騎兵団とさし・・
で戦ってみたい」 という子供じみた妄想は好古の中にも多少は息づいていたが、しかしその衝動をおさえぬいてゆくことが、彼の戦闘指導原理であり、このため彼の騎兵部隊は、戦闘となれば馬を捨てて徒歩兵になり、射撃戦のかたちをとることによってコサックと戦い、かろうじて戦いを六分の勝利にもってゆきつつあった。 その好古の不満と鬱屈が、百騎以上の単位を遠く敵中に放つという挺進騎兵戦法になって、噴出口を求めたといっていい。 彼は、発進しようとする永沼秀文中佐に、 「やがて第二、第三挺進隊も出す。おれも時機がこれを許せば旅団全部をもって出るつもりだ」 と言ったのは、そういうことであろう。が、かんじんの総司令部が、兵力不足のため好古の騎兵集団をして左翼の守備用にのみ使うという態度でいるため、この条件下では、ニシチェンコのように大騎兵団そのものが、森が動くようにして動くという作戦へ飛躍することが出来なかった。 「私がやったことは、秋山さんがやろうとしていたことを代理でやったようなものでした」 と、永沼秀文が語っているが、永沼はその放胆な敵中への機動中、ついに数倍のコサック騎兵部隊に遭遇するという状況におかれ、ふつうなら徒歩戦に移るか、もしくは待避するところを進んで襲撃し、馬上戦を演じ、ついにこれを遁走させるよいう、
「秋山さんの宿志」 を満足させた。 好古はこの永沼挺進隊の進発の日、馬を兵陵上に立てて見送ったが、ときに降雪ははなはだしく、百七十騎の孤軍の影が消えることが早かった。好古は何度か馬を駈けさせて追いつき、追いついては見送るという動作を繰り返した。 |