〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-\』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/05/28 (木) 

黒 溝 台 (十四)

好古は、日本軍の最左翼を守っている。
といういわば守りのかたちでは、彼とその騎兵団は、騎兵用兵の特質がまるで生かされていなかった。騎兵は、戦略的高所からみた急襲、奇襲という目的にこそ生かされるべきであった。
(日本軍の幹部には、騎兵がわからない)
というのが、好古のひそかな不満であり、児玉源太郎に対しもそう思っていた。
「騎兵の一部隊を的中に放って、その後方撹乱や牽制、兵站の襲撃、鉄道や鉄橋の爆破をやりたい」
ということは、かねて上申していた。は、そのつど総司令部は黙殺した。
児玉源太郎とその信頼する松川敏胤大佐の思考世界には騎兵用兵の思想がほとんどなくわずかに存在しても、
「日本の騎兵になにが出来るか」
という味方の能力についての不信感があった。事実、ロシアは世界最大最強の騎兵国であり、そのコサックの乗馬術の巧みさや、馬挌や乗り手の体格の雄大さを考えると、日本騎兵は視覚的にも貧相であった。彼らは好古の対コサック戦術がそうであるように、馬からおろして徒歩兵として塹壕ざんごう や地形地物にかくれて射撃するしか仕方がない、と児玉も松川も思っている。
「騎兵無用論」
というような意見が、戦前から陸軍の中枢部にあった。日本陸軍の保守的性格は、のちの航空機や戦車についても積極的でなかったように、ほとんど体質的なまでのものであるということは、かつて触れた。
好古は、そういう中にあってひとり騎兵の必要を説き、騎兵の用兵を説き、
「騎兵の不幸は、名将が出現してはじめてよく運用されるもので、凡庸な将帥のもとにあったはときに邪魔者にしかならない」
と、言っていた。
たしかに日本陸軍は、騎兵の研究を怠ってきた。日本の近代戦術の師匠であるメッケル少佐も、出が歩兵であったせいか、騎兵運用の感覚にとぼしかったことも、その軽視の風潮をたすけた。日本陸軍が一大尉にすぎなかったころの好古に、騎兵研究のすべてを任せたのも、いわば軽視の証拠であったかも知れない。その後も好古に、騎兵はまかせっきりであった。
好古はこの戦いが始まる前、騎兵実施学校の校長として将校教育に当っていた時、
「騎兵の挺進行動」
ということをさかんに唱え、教えた。その要領を教え、その戦略的価値がやり方によっていかに大きいものであるかを説きつづけた。
永沼挺進対の永沼秀文も、
「私は、秋山閣下のお弟子でございますから、閣下に教えられたとおりやったにすぎませぬ」
と、戦後ひとに語っているが、永沼挺進隊の派遣が総司令部と第二軍司令部から許可された時、好古は出発する永沼に対し、
「非常な難儀に合うだろうが、これが本当の騎兵的行動だから骨を折ってやってくれ。もしうまくゆけば、とかく今日まで無用あつかいにされている騎兵の真価を認めさせることになるのだ」
と、言った。
好古がそのように言うほど、この当時の日本陸軍は、自軍の騎兵については自信も知識も持っておらず、ただミシチェンコとレネンカンプの騎兵団のみを怖れた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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