〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-\』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/05/28 (木) 

黒 溝 台 (十三)

戦場には幸運と不運の偶然が、星ほどの数で散らばっているが、作戦にも偶然の暗合が多い。
ミシチェンコ中将の一万騎が南下行動を開始したのは一月九日であったが、この日、秋山好古の手もとから、おなじ狙いの挺進騎兵団が、ロシア軍の後方を目指して出発している。ちょうど流星がすれちがうようであり、双方はむろん気づいていない。
「永沼挺進隊」
というのが、それであった。指揮官は、騎兵第一連隊長永沼秀文中佐である。
「永沼は、色白で温厚な、一見商家の大旦那を思わせるような紳士であった。もし平時、サロンで談笑していれば、とてもあの紳士があのような鬼神の働きをしたとは、たれも想像が出来ないに違いない」
と、好古は晩年、よく語った。
ミシチェンコが一万騎の兵力であったのに対し、長沼秀文の兵力は、わずか百七十騎にすぎなかった。むろん砲兵や歩兵の協同を受けず、純粋に騎兵のみが、騎兵の特質のみを生かして行動した点に差異がある。
さらには結果としての差異が、大きいであろう。
ミシチェンコの機動作戦は、きわめて不徹底であった。かんじんの鉄橋を爆破することもなく、海城、牛荘城、営口の日本軍兵站基地をくつがえすこともなく、機動期間わずか八日でその作戦を切り上げて北へ去ってしまったのにひきかえ、永沼のそれは比べものにならぬほどに徹底していた。
彼は百七十騎を率いて、ミシチェンコの数十倍という気の遠くなるほどのコースを機動した。彼の機動期間は二ヶ月であり、その行程はじつに千六百キロであった。
その間、敵の兵站倉庫を襲撃したり、数倍のコサック騎兵と激闘してこれを破ったり、ついには新開河の鉄橋を爆破したりした。
好古は、この永沼挺進隊の発進して三日あとに、第二挺進隊として長谷川茂吉少佐を長とするほぼ同規模の機動部隊を放った。この第二挺進隊も永沼の場合とほぼ同じ距離を機動し、その間六十余日、敵中を突破してついに第二松花江しょうかこう の線にまで出た。
その前に好古の手もとから出発した山内少尉以下四騎の将校斥候は行動十八日、行程千キロにおよび、さらにそのあとに出発した建川美次よしつぐ 中尉以下六騎の将校斥候は行動二十三日、行程千二百キロ、三百里におよんだ。
建川中尉が帰還する時、彼は軍曹豊吉新三郎を報告者として煙台の総司令部に至らしめたとき、総司令官大山巌は、
「まったく人間では出来ぬことでごわす」
と、一軍曹に対し敬意を込めて会釈しただけでなく、総参謀長の児玉源太郎大将にいたっては、サインブックを持ち出し、
「たのむ、揮毫きごう してくれ」
とせがんで、豊吉軍曹をうろたえさせた。大山も児玉も、維新の風雲を切り抜けてきた男だが、しかし、日本人にこの種の冒険的行動と持久力があるということをこの時初めて知ったとのちに述懐している。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
Next