〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-\』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/05/28 (木) 

黒 溝 台 (十一)

日本軍の後方を撹乱しようとする大機動軍のすべり出しは、戦略的にも戦術的にもすぐれていた。が、いざ実施となると、この当時のロシア人の欠陥が、どの計画にもボロ綿のように露呈してほとんどが失敗に近い結果になった。
たとえば大石橋−営口間の鉄道を破壊するという重要任務を背負ったシュワロフ大佐の縦隊は、諸縦隊に先立って出発することになっていた。シュワロフ縦隊が宿営地 (牛荘城南方) を出発すべき予定時刻は、十二日午後二時と命ぜられていた。
「時間を間違えぬように」
とミシチェンコはとくにシュワロフ大佐に念押しをしたのは、この先発隊の行動が遅延すれば他の関連縦隊の行動計画に支障が起こって来るからであった。
が、彼らは出発してから二時間遅れた。かんじんの爆薬行李がこの縦隊に到着するのが遅れたからであった。
「私は手品師ではない。爆薬を持たずに鉄道を破壊する芸当は持っていない」
と、シュワロフ大佐は、後方で輜重を担当しているスゥエシニコフ大佐まで伝令を走らせて、伝令の口を通して皮肉をあびせた。
この縦隊が、ようやく鉄道に接近した時は、陽が傾きはじめていた。
このとき、シュワロフ大佐にとって幸運であったかどうか、東方の大石橋方面の地平線に煙が見え、汽車が接近しつつあることが分かった。
「すぐ爆薬を」
と、大佐は爆薬を携行した一中隊に前進を命じたが、しかし列車を転覆させるべくレールに爆薬を仕掛けるには時間がなさすぎた。列車はもう、そこまで来ている。この列車は無蓋車十六輌より成り、日本軍を満載していた。列車は営口を目指していた。ミシチェンコの来襲を聞いて救援にかけつけた後備歩兵第八連隊 (大阪) の兵である。
「列車を襲撃しよう」
と、シュワロフ大佐は決心した。彼は騎兵二個中隊を割いてそれに徒歩攻撃を命じる一方、主力をあげて列車と平行して駈けようとした。
彼はそれを命ずるとともに、彼自身、剣をあげて疾駆した。コサックたちは馬上から列車を射撃した。もし機関士を射ち殺せば列車はどうかなるだろうとシュワロフ大佐は期待し、
── 機関車を狙え。
と、命じた。が、彼のこの縦隊は火砲を持っていないため、小銃射撃ではたかが知れていた。
日本軍の方も、猛然と応射しはじめた。彼らは無蓋ながら貨車の側面を楯にできるために有利であり、並行して疾駆して来る騎兵をつぎつぎ倒した。
結局、日本軍の列車が蒸気をあげ、全速力を出して走りはじめたため、コサックは競走にやぶれ、戦闘はうやむやになってしまった。この妙な競走と戦闘のために部隊秩序が拡散し、同大佐は再び兵を集めるのにひどく時間がかかった。
その兵力集結中に、
── 日本歩兵一個大隊が大石橋方面より前進しつつあり。
という報告が入ったため、同大佐はそれとの衝突を避け、電話線を切り、鉄道五ヶ所を爆破して退却したが、この程度の鉄道破壊は日本軍にとってさほどの支障は来たさなかった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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